2003/07/28旅行記--青函トンネル・吉岡海底、北海道・函館   


原文:

2003/07/28遊記--青函隧道˙吉岡海底,北海道˙函館

http://www.wayfarer.idv.tw/Japan2003/0728.htm


思いがけない事に夜になるとYHはよく冷えた。ベッドに厚い毛布があるのがやっとわかった。鶯谷の民宿とはずいぶんと違う。幸いにも冷えたほうが僕を気持ちよく眠らせてくれる。でも朝方地震が二度あったようだ。僕は同部屋の4人目の客が目を覚ましたのを見た(彼が来たとき僕はもうベッドで寝ていたから挨拶はしてない)。台、日両方とも地震は多いし雨降りより頻繁におきる。だからなんも驚くことはない。瑣事にすぎない。二度寝した。

YHでは一斉に起きるらしい。僕は目覚ましを持ってない。玄関前に鈴があるけどあれをmornig bellにするのだろうか。それは疑わしい。あの鈴は何に使うのだろう?ちょっと後でヘルパーと話して明らかになった。しかし運がいい。途中で2度起きたけど時計を見ずにまた寝た。唯一見たときは6:50だった。すばやくベッドから起きて、顔を洗い歯を磨いた(日本は飲み物が高いので外出前に水を用意するのがベスト。路上で買い飲みする金が節約できるし、空になっても駅で補充できる)。朝食はみんないっしょに食べた。残念なことにみんな日本人で、僕は黙って食べた。でも他の人もしゃべってはいたが2266で素っ気無かった。食べ終わった後に旅行アンケートをちょっと書いて、その場にいたYHの職員にさようならを言って、もちろん記念写真は必要だ。僕が階段を下りるとき、職員が鈴を鳴らした。あの鈴は送り出すための鈴だったのだ。鈴の音は静かな山あいの谷にこだました耳に心地よかった。

青森YHは牧場なので、山の景色が相当にいい。ただ惜しい事に時間の問題があるので、細かく見ることができず急いで列車に行く。荷物をさげながら駆けると息が上がった。荷物は簡単なほどいいい。向山駅に着いて列車を待つと、1分もしないうちに木村もやって来た。三沢で乗り換えて(三沢は大きな駅で特急も停まる)、その後どこに行くのかは聞き取れなかった。つまりYHで経験したのと同じだ。

青森に着くと、さらに40分待ちで吉岡海底へ行く電車がやっと来る。でも時間が少ないので駅の外には出なかった。だからホームで旅行記を書いた。自分を疲れさせないためと、荷物預け代を節約するためだ。さらに言えば駅を出たってぶらぶらするようなところはない。昨日もぶらついたのだが、どうってことなかった。旅行記を書いてちょっと休んだまさにそのとき、鳩が一羽舞い降りて、僕が休んでる椅子の方へひょこひょこ「歩いて」きた。本当に人を怖がらないんだな!残念なことに僕は食べさせる物を何も持ってなかった。日本人なら不安なことをしないと鳩は決めてかかってるから、大胆にこっちに歩いてきた。おまえは台湾にいなくて良かった、じゃないとお前は路上で鳩のローストになっちまうぞ!

10:00に列車が来た。前に行ったように、青森ではドラえもん列車に乗れないのだ!このときの僕の心の中の失望は形容しがたい。ドラえもん列車に乗るということは海底243mを体験したいということだ。本当に遺憾である!ドラえもん列車に対する憧れのせいで、この普通のデザインの電車を信じたくなかった。これが僕の乗らなきゃいけない列車だって。だから僕は3人の日本人に訊いて、やっと事実を受け入れた。なんてこった!僕のドラえもん列車は無くなっただって!そのうえ吉岡海底に着いた後降りれるのは2号車で、そこは自由席であって指定席ではない。どうやらネット情報はUPDATEが必要のようだ。あるいは函館発の青森発では違うのかもしれない。でも僕は函館からもう一度チャレンジするのは不可能だ、旅程がほかにあるのだから!

2号車は禁煙席なのに吸ってる人がいた。だから日本人が規則をよく守るとは限らない。こっそりやれるときはやっちまうのだ。今日は休日じゃないせいか乗客も少なく、僕は一人で4つの座席を占めて靴を脱ぎ脚を椅子の上に放り出して、気分よく窓の外の緑の風景と海を観賞した。車内の電光掲示板では吉岡海底の注意事項がずっと流れていた。僕がずっと注意したのはいつ海底トンネルに入るのかということだった。暗闇と明かりが何度もあり(小さなトンネルがちょっと続くと青函トンネルが近いということ)、
ついに10:42正式に海底トンネルに進入した。10:59吉岡海底ドラえもん見学区に着いた。このとき書く車両から人の波が溢れだし、僕もこの2号車で降りる準備をした。ドラえもん!僕は来たよ!

降りたときに、乗車しようとしている一群を見た。おそらく前の回に観賞した民衆だろう。まず職員が解説をした。ここも変わった場所で荷物は降りたところで預けることができ、負担が軽減された。(以前のネット情報では荷物をもって「見学」しなければならないようだった)。そして職員の足並みに従って前進した。ドラえもんに関するものが通路に満ちていた。よく知ってるのび太(大雄)、ジャイアン(技安、胖虎)、スネ夫(阿福、小夫)、しずか(宜静、静香)などのポスターが張ってあり、非常に愉快な気持ちにさせてくれた!両側の壁には多くの日本の各市、各県の民衆から提供されたマネキン、手形、祝福のことばなどもあり、単調な通路に彩りを沿えていた。その後、職員がドラえもんのテーマ曲を流しながら車を運転して僕達のガイドをした。僕達一行はさらにハイになった。いちばんいちばん愛してるよドラえもん!

僕以外はみんな日本人のようだった。子供はもちろんとても多かった。結局ドラえもんは子供のアイドルなのだ。僕は小さいころに「ドラえもん」を見て、大きくなった今でもかなりの好感を「ドラえもん」に対して持っている。ドラえもんのテーマ区では、多くのドラえもんに関する模型を見ることができた。家の場所、ドラえもん、大雄、胖虎、小夫、靜香などのの日常生活の模型があった。ここは広くないのでちょっとで全部見れた。僕はぜんぶの模型を写真に撮った。人に頼んでドラえもんと一緒の写真も何枚か撮った。だっていちばんいちばん愛してるドラえもんなんだから!

その後舞台で着ぐるみのドラえもんとのび太が出てきてみんなと顔をあわせた。職員の紹介でみんなといっしょに動いた。僕はナレーターの日本語が聞き取れなかったけど、素晴らしい人の場にいるほかない。ドラえもん、のび太が舞台から降りてきて希望者のみんなと記念撮影をした。ドラえもんは本当にかわいい。大人、子供関係なくみんなドラえもんと一緒に写真を撮りたがった。

それからは自由行動になったが、みんな疲れてるようだった。ここが広くない関係で、何度も行ったり来たりを繰り返したので、ばらばらに集まって休み始めた。僕はここで記念シャツを買いたかったけど、残念なことに売ってなかった。日本の慣例に照らして、本州、北海道、青函トンネルの字に僕の名字を入れたキーホルダーを買って記念にした。もちろん多くの人は足りない写真を撮っていた。僕はずっと電池の充電が切れかかっている問題が気がかりだったが、ついに勃発した!僕が人に頼んでのび太の一家がそろった部屋で記念写真を撮ろうとしたとき、このガールはデジカメを使った事がないらしく、長時間いじったのによくないアングルで撮りやがり、のび太の家族の記念写真の背景は端が切れた失敗写真になった。電池はやっぱり切れかかっていて、僕は遺憾だったら遺憾しかできなかった!函館に着いた後は順調に充電できることを願う。でなかったらその後11日間どうするのだ!函館で泊まったところは台湾系オーナーで、コミュニケーションも問題なく、変換アダプタが必要なことや、さらにはどこで買えばいいのかをはっきり訊くことができた。

13:00吉岡海底見学が終わった。ぜんぶで2時間、充分に見て回った。出て行くときに通路の表示でわかった。本当は函館からドラえもん列車があることを。残念だ。早く知っていれば、今朝まず函館に行ってからさらにドラえもん列車に乗って吉岡海底に来たのに。別のあたりを歩いていると、小さな水道になっているのを発見した。水が流れていたが、何の用に使うのかは知らない。13:20白鳥3号に乗って吉岡海底を離れた。さようならドラえもん。いつの日かまた会おう。13:32海底トンネルを出た(前後の時間からすると、海底トンネル全体、津軽海峡部分は約30分で通り抜けることができるようだ)。すばらしい!僕はまたも新体験をしたのだ。本州から海底を抜けて北海道に行くなんて。両者の間の海峡は津軽海峡といい、両者間のトンネルは青函トンネルと言う。海底下100mで2時間も滞在したのだ(海面から津軽海峡最深部まで143m、だから僕は海面下240mの深さで行動したことになる)。得がたいことだ。

海底を出て函館に着いた。実はまた長時間待たねばならない(40分あまり)。函館に着くと、北海道第三の都市である気概を感じ取ることができた。駅の規模から知ることができる。このときもう腹が減ってめまいがした。だって昼になんも食べていないのだ!しかしまず先に泊まるところを見つけてから食べに行かないと、荷物を置けなくて不便だ。駅の西口から出て行くと函館朝市の看板があった。自覚しないまま前に歩き、ワンブロック歩いたところで住所が正しくないのを発見した。警戒して前進を止めた。北洋銀行わきの公衆電話を使い、住友民宿に電話した。函館の陳ママは行き方を話したが、慣れない土地ではっきわからず、自分のやり方で歩き、荷物を引っ張りながらちょっと歩いた。ああ、間違ってる!それでも道を聞けばいいのだ。どのみち僕の日本語はもうかなり進歩していて、肝っ玉も座ってきた。道のおばさんに訊いてみると、やはり間違っていた。幸いにも一回訊くだけで済んだ。そして正確な道を歩いた。腹へってしかも荷物を引いてる。やりきれない。この後は無駄脚を踏まず、順調に到着した!

中に入ってみると、いい感じだ。見たところ部屋貸しが専門のようで、きれいで、新しい建物だ。今日明日二日はよく眠れるぞ!陳ママはおしゃべり好きで、親切だった。ネットに上がっている客とママの紛糾につて話した。住友民宿をよく知っているみなさんならわかっているはずだ。事実の真相を判定するのは難しいけれど、ママはこの印象を変えたいのが見て取れた。少なくとも僕がここにいたときは、どれも悪くなくて、満足だった!旅行も三日目になって、僕も疲れていた。(主な原因は睡眠の問題だ)。そのうえこのときはっもう午後3時になっていた。だから行程をリラックスさせて、ママと1時間ほどしゃべった。

「昼食」はママの提案を受け入れて、近くの「甚兵衛」で弁当を買って住友に戻って食べた。食べなれないけど、受け入れることはできる。腹が減ってたからだ。陳ママは二人の香港人を迎えにいった。弁当を買って戻ってきた後は、充電できるかどうかはやく試したい。や!できた、万歳!心の重しがとれた。僕の例からみなさんに伝えたい。電圧は違うけど、台湾で買ったデジカメ充電器は日本でも使える。問題ない!だめだったら、僕をひっぱたたいてもいい(できるならね)。

でも充電が終わるまで待たないと。デジカメが使えないならどこかに行きたいと思わない。いい景色に出会ってしまって後悔するのがこわい。でも部屋の中で待つのも青春の浪費だ。だから外出してぶらついた。このときもう5時だったので、函館駅付近をまわることに決めた。駅をちょっと見て北口から出たら自然と「摩周丸」青函連絡船記念館が見えた。入って先に映画を見た。青函連絡船の誕生、洞爺丸の海難、さようなら青函連絡船の三部だ。

中でも印象深かったのは昭和29年1954年9月26日に起きた洞爺丸事件だ。洞爺丸は台風にいたぶられて1314人のうち1155人が遭難、159人が生き残った。この大悲劇が青函トンネル建設の決心を促し、ついに1988.03.13に青函トンネルが開通し、JRが通った日が青函連絡船の勇退の日になった。その日、函館の「羊諦丸」と青森の「八甲田丸」が最後の船便となり、これで青函連絡船は過去のものとなった。映画の船には観光客、従業員がいて、汽笛が鳴り響く中、紙テープを投げて、青函連絡船に涙で別れを告げていて、本当に感動させられた!さよなら青函連絡船!

その後船内で青函連絡船の歴史を文字とパネルで見た。1908~1988の八十年にわたって津軽海峡を往復し、記念すべき事があまりにもたくさんあった。摩周丸には各船の模型、服装、器材、こまごまとしたものなどがあった。甲板に上ると、視界が本当によく、海面は晴れ渡り、カメラがないのが残念だった!:(

住友に戻り、先に胃腸をきれいにした。これは僕が日本にきて3日目にして最初のだった。少ししか食べてないので、便も急がずに出てきたのだった。電池の充電状況を見ると、うん!悪くない。フルだ。安心してカメラを手に出来る。また函館ママとしゃべり、ママの紹介で「一之鉄」へ行きラーメンで夕食にした。着くまで長かったが、脚力をちょっとは回復したと思えばいい。異国の道を歩くのも悪くない感覚だ。薄味のを食べないとしょっぱすぎるかもねとママは念を押していたが、そのようで、僕もしょっぱすぎると思った。美味いか不味いかといえば、本当言うと僕は食べれなかった。

戻ってからママと食堂で茶を飲んで、無駄話をやった。これがみんな民宿を選択する原因のはずだ。日本の商店は閉まるのが早いので、早寝もしたくないし、テレビも見たくないのなら、おしゃべりするのがいいやり方だ。もし泊まってる人が多ければ、みんなで寝る前に話をしたり、旅の心得を交換したりして、悪くないはずだ。


2005-11-09 20:09  nice!(0) コメント(0) トラックバック(0)

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