徒歩旅行 2005 日本万博中部 ブログトップ

徒歩旅行 2005 日本 費用   [徒歩旅行 2005 日本万博中部]  

サウナ・カプセル ウェルビー名駅 4100円
オリオンプラザホテル 4200円
キャッスルイン金沢 6200円(朝食つき)
ホテルルートイン富山 5450円(朝食つき)
ホテルアルファーワン上越 5800円(朝食つき)
スカイスパYOKOHAMA 4200円

宿泊総費用 2万9950円

日本滞在費(宿泊費込み) 10万3078円

台北=中部 往復航空券(UA) 11500NT$(約4万円)



徒歩旅行 2005 日本 あとがき   [徒歩旅行 2005 日本万博中部]  

あとがき

今回の日本の旅はJRパスを買わないことに決めたが、旅行中に後悔した。旅程の半分はJRを使わなかったが、実際の価格はかなり超過した。ちょっとぐらいの足が出るのならかまわないけど、毎回乗る前に切符河ないといけないのは、時間の浪費だ。自動切符販売機で万札や5千円札が使えないときは、窓口で買うのでさらに時間がかかる。JRパスのように自由に出入りして時間を節約できない。今回の旅では、発車まで6分しかない時があり、JRパスならすぐに入れるが、切符を買う時間をいれるとそうはいkない。この差で1時間待つことになった。だから切符購入を多くしてJRパスを使わない選択をしたのは、とても不便だった。ここでネット友人に申し上げたい。わずらわしさをはぶきたいなら、やはりJRパスを使おう。だが、なんの収穫もないわけじゃない。前は指定席と自由席の値段が同じだと思ってたが、切符を買う経験を通して自由席の方がけっこう安いことがわかった。例えば新幹線の小田原から名古屋まで、指定席なら8900円、自由席なら8190円だ。200元は違うのだ!

万博の入場券も頭を悩ませた問題だった。きけば入場券には個人情報が必要だと言う。僕はクレジットカードを使ってネットで予約したが、会場の切符売場に着いて手にしたカードを入場券に変えただけだった。あるいは入場券にカードの僕の情報があったのかもしれない。でも僕は見てないし、何に使うのだろう?さらに入場券に写真と名前がある人も見た。騙された感じで落ち込んだ。僕の調査が不味かったのだろう。記念になるいい方法を失ってしまったのだ。ネットで入場券を予約せずとも、日本の多く場所でも自動販売機で買えたのだ。おそらく多くの人は前売りを買ったのだろう。だから現場でで買うときもほとんど遅延がないのだ。万博は期間限定だから、こういう経験もなんの役には立たない。

宿泊では取り上げる値打ちがあった。名古屋と横浜でSPA温泉ホテルに泊まった。名前に脅されてはいけない。たんなる入浴だ。名古屋では寝椅子で寝れるし、横浜にはカプセルがあり、とても珍しく思った。以前ネット友人に聞いてはいたが、実際に体験するととてもいい感じだっら。自在でのんびりした感覚。こういう宿泊スタイルがあまりプライベートを気にしない自由旅行のみんなに泊まるよ推薦する。体験、体験。

八月の北陸、関東、東海道、どこに行っても耐えがたい暑さで、日中温度は32度以上。堂堂たる漢は傘をさせないので、日差しをよけられない。台湾に戻ったら、両腕は非常に明らかな色になっていて、顔も何層も黒くなっていた。2年前に北海道に行ったときとは情況がかなり違う。旅行は慎重に場所を選ぼう。春日山城に行った時は、春日山駅がとても小さかったのでコインロッカーが無く、バックパックを背負って強烈な日差しのした歩くしかなかった(城址には日陰が多かったので気分が良かった)のを思い出した。当時も今もこんなことをやれた自分に敬服している。だって日差しは本当に棘のように射していたのに、諦めず歩いたから。



徒歩旅行 2005 日本 8月9日   [徒歩旅行 2005 日本万博中部]  

2005/08/09遊記--鐮倉鶴岡八幡宮、高德寺大佛,小田原城

カプセル空間で寝るには欠点がある。隣の音がするのがよくない。意外にも隣のいびきすらはっきり聞こえる。足音、話し声、鳴り響くアラーム、カプセルの壁にぶつかる音、本当に耳に入って、壁が無いのと同じ様だ。これらの問題を早く解決できることを願う。それならこういう宿泊方式も自由旅行者の安宿、とてもよい宿泊スタイルとして考慮できる値打ちがある。

6時に近くの鳴り響くアラーム音とうるさい声で目が覚めた後、また寝たがちょっとして起きる事にした。まだ朝早いが、どうせ最後の一日だ。遊ぶ時間もとても充分ではない。眠りが少しでもたくさん遊ぼう。髭を剃ったとき不注意にも切って血を出した。タダのかみそりの品質はやはり比較的ひどい。自分のかみそりを持ってきて使うほうがいいのは前から知っていたのだが。でもこのときわかった。昨日入浴した時に顔につけた乳液と間違えたのは、今仔細に見ればシェービングクリームだった。どうりで昨日顔を洗ったとき変な感じだったわけだ。幸いにこういう恥かしい事はあのときばれて無かった。

荷物を整理してチェックアウトした。朝に鎌倉まで電車に乗るのも悪くないと言いたい。1階のコンビニで寿司、フルーツジュースを買って朝食にした、だってそこには食べるスペースが付設されていたのだ。僕もコンビニで食べた。こういう行き届いた施設は本当に悪くない。必要な人には食べさせることができるから。彼らはこの空間を商品販売ゾーンにしなかったことは、ほめるに値する。じゃあ台湾には無いのか?ある。僕も一例を見た事がある。そのコンビニは五股工業区にあった。僕が前の同僚と訪れた時、一緒にコンビニの中の食事スペースで飲み物を飲んでしゃべることができた。

食べ終わって横浜駅に着いた。路線図をちょっと見ると、目的地に行くにはどの電車に乗ればいいのかはっきりしていた。こういう情報は次回も一緒に覚えて置くべきだ。どこかへ行くのにどれに乗るのかわかる。でもどの方向への電車かはわからない。台中で潭子まで乗りたいのに上りか下りか覚えてなくて駅に着いて時間をかけて調べているのと似ている。鎌倉に着くとまず鶴岡八幡宮の位置を見た。徒歩スタイルでぶらつけないようだった。時間が足りないし、高徳寺大仏のような時間がかかる他の場所も行くのに。だから駅東口のそばに貸し自転車があったので、レンタサイクルで鎌倉を遊覧する事に決めた。15分待って営業開始を待ち(8時半)、突進した。言葉が通じないけど、まず接触してなにがしかの対話とジェスチャを通せば、ここは平日1時間500円、以後1時間ごとに250円、1日1500円、デポジット千円、休日は割り増しで1時間550円、割り増しは変わらず、1日1600円というのがはっきりした。同時にここでは荷物預かりをしてないこともわかり、駅のコインロッカーでちょっと金を使った。

その後、時間を浪費しないために直接鶴岡八幡宮に乗って行った。でもちょっと気ままに乗ることにし、地図は仔細に見なかった。わき道をぶらつくのもいい。標示はずっと見なかったが、ふらふらすることなく、八幡宮へ前進した。説明に各車両駐車禁止とあったので、規則違反をしたくないので「段葛」旧道の入り口に止めた。これは止めていはいけない場所に止めたのではない。もちろんそれでもとても注意はした。でも適当な場所がないのだ。チャリ止める場所を見つけるのに多くの時間を浪費したくなかった。警察に回収されるとしても、1台のチャリなら賠償してもいくらでもない。

鶴岡八幡宮は僕がPCゲームから知ったところでは、上杉謙信率いる関東と越後の連合軍が北条氏の小田原城を攻めた後、ここで正式に関東管領上杉憲政の「上杉」姓と関東管領職務の受け継ぎをする儀式をし、上杉謙信が一番輝いていたころである。僕は春日山駅で春日山から鶴岡八幡宮への1,2日のパック旅行を見た。歴史の由来と密接に関係あると見えた。

八幡宮へ行く道はずっと2列に並んだ(写真で示すように)図案だ。祭りのために設けられたのだろう、デザインはそれぞれ異なり、とても面白い。今晩も花火大会があるらしい。ああ~。松本城と同じ、見る縁がない。この区間の道は砂利道だ。でも歩く感覚はとてもよい。さらにもう一区間経て、主殿に登れる階段に着く。もとは平凡で珍しくない神社’同じ様な建築は日本各地にとても多い)だったが、上杉謙信の関係でたちまち荘厳厳粛、心に敬慕を生じさせるようになった。周囲をのんびり歩いて回ると、とても静寂な環境で、静かな気持ちにさせる。

時間に限りがあるので休む暇もなくすぐに出た。チャリの旅がまた始まる。「段葛」旧道を最後まで走って、続いてみちなりの道路を走った。写真に示すような「滑川海浜公園」に着いた。「高徳寺大仏」に通じている。鎌倉地方はチャリ旅にとても適しているのが僕はわかった。ネット友人が将来鎌倉に行くなら採用して欲しい。海浜公園はとても広い。相当長い海岸線だ。花火大会があるため、車両、人がとても多い。交通警察も多くいる。ビーチにか観光客も多い。遊びたわむれている。花火大会が始まったら必ずや更に賑やかだろう。でもその時僕はもう飛行機の上だ。

海浜公園に沿って一周して、ちょっとやりすぎたのがわかった。地図にしたがって戻り、幸運にもひどくはならなかった。すばやく大仏までの標示を見つけ、そのまま高徳寺を参観した。敷地は大きくない。本当に5分で歩き終えられる。大仏の他になにもないとも言える。それでも少なからぬ西洋人観光客が(団体旅行のだ)ここにもいた。みたところ商売にはよさそうで、おそらくあの尊い大仏が観光客を吸い寄せてくれるのだ。全部で10分いて出た。どうせ重要ポイントの目的はもう達成したのだ。さらに時間もまあまあだ(10時5分)。松本城の遅延事件を再度起こしたくない。早く戻るのがより妥当と決めた。道の標示ははっきりしていたから、心は急いていたけど、10時20分に貸し自転車屋に着いた。主人はとても親切に僕に挨拶した。おそらく僕の鎌倉の旅が完成したのを感じてうれしかったのだろう。帰りの走りの道はやはりちょっと疲れた。

小田原に着いた後、列車の時間に遅れないようにまず帰りの切符を買った。8190円の値段を見たとき、僕はのこり1万1千円しかもってないのに気づいて、すぐに驚いた。これで足りるのか?名古屋>空港の切符と、小田原城参観券と昼飯がまだある。そこでカードを使おうとしたが、パスワードを思い出せない。これは当然で覚えて無かったからだ。精密に計算した後、やはりキャッシュで買った。昼飯とおみやげを捨てればまだなんとか間に合うだろう。

心を疼かせながら荷物を預けるのに300円払い、日本のお金が使えない情況で、いまさら出費ごとに注意し始めた。駅から標示にしたがって小田原城前に進む。距離は遠くなく道を歩いて着けたのがとてもよかった。約15分で小田原城公園入り口に着いた。主城まですぐだった。向かいの近いところには一頭の大きな像が飼われている。鳥類もすこしいる。まったく複雑な公園だ。全体で言えば、公園の敷地はやはりとても大きい。日本人があんなに多くの城址公園を持ってるのがうらやましい。外観の写真を撮って城を参観する。400円払った。城内には武器と防具、小田原城がかつて上杉謙信、武田信玄、羽柴秀吉など3大戦国大名に包囲された歴史や、北条家の興亡などがたくさん紹介されていた。城の堅固は違いないが、守りの肝心な点はやはり人であろう。

四階の天守閣に売店があった。刻印キーホルダーを記念にしたかった。ああ。金がないときに金を使う情況が起きる。昼飯は本当に放棄した。一食腹すかしても記念品のほうが重要だ。刻印に30円払うのだが、僕は10円玉が足りなかった。そばに両替機もない。想説用五十元銅板虧二十算了,沒想到機器把他當作是十元,這下子不得不開口換零錢了,悔不當初!因此紀念鑰匙環共花了570日圓(其中包含被污掉的四十日圓)。

キーホルダーに刻印しおわれば、なんの名残惜しみもない。すぐぎ下に降りて出た。まだ時間があるので、公園を隅々まで見て歩いた。いいアングルで小田原城が撮れないものか探った。でも見つからなかった。正面の広場が適している。「常盤木門」「銅門」を通り過ぎた。松本城と同じ赤い橋の「隅魯橋」も通った。こんとき時間はもう13時半。ゆっくり歩いて戻った。思いがけず道に迷った。でも心配は無かった。だって小田原城が見えるのだ。城を中心にすれば大きく外れる事はない。さまよった後、別の道から来た時の道の北の入り口に着いた。短かった数分の迷路が終わった。それから駅の中と外の写真を撮り、地下場の道を歩く時間も無いが、撮影を満足した。小田原はとても賑やかだと感じた。おそらく箱根や伊豆へのリンク地点だからだろう。新幹線もここに駅を設けているのも、ここを賑やかにさせているのだろう。

もう残りの金は少ない。腹も減ってる。やはりすぐに駅に入って列車を待とう。14時5分に着くこだまがある。でも遅い列車であるのを僕は調査で知っていた。乗ったら悲惨だろう。飛行機も乗れないかもしれない。もし明確に調べないのなら、いざになって泣きたくても涙も出ない。だから充分な準備は必須だ。同じ列に並んでる乗客も乗らない。僕と同じく14時10分のひかりを待ってるのだ。後でわかったが、これは途中1駅しか停まらずに名古屋に行くのだった。勿論速い。静岡県は全域を通過。山梨県と同じ様に停車駅は設けられていなかった。東海道線上の景色で、淡水の漁人桟橋の「恋人橋」のような建築物を見た。どっちがどっちをぱくったのかは知らない。これは僕が東海道新幹線に乗った最初だった。

名古屋に着くと、7日の旅行日程が完全に大きな輪を描いて完成した。すこぶる得意である。六日前の事情はもうずっとずっと昔のように感じる。10分で名鉄に着いた。この地を熟知してることがとても楽しい。ホームで今着いた列車の車種を見ると特急だ。買いたかったが、押すボタンを見つけられない。窓口でしか売ってないのかもしらん。でも時間はせまっている。委細かまわず、先に普通乗車券を買って乗ってしまおうか。早く空港に着ければ比較的安心できる。でもこのとき身にあったのは千円にも満たない。だから車内補充券だと、万が一の面倒がこわい。僕は充分のはずだと推測したが、でも冒険はしたくない。

約40分で中部国際空港に着いた。精算機であらためて切符を買おうとしたが、でもおそらく機能が悪いのか、僕の切符には問題なく、どんな電車で来たのかも訊かれないのがわかった。僕は大手をふって改札を出た。どうせ僕は日本で少なからぬ金を貢献しているのだ。これも僕にくれた割引なんだろう。でもここまで来て小銭が嫌に多かった。コンビニで小銭が使えるような物を特に選んで、9個の銅貨を払った。気分はとてもいい。でもまだ10個の銅貨がある。幸いにもさらに簡単な昼食を食べることはできるが、土産を買うのには不十分だ。

そして搭乗券に換えて、留まらずに直接待合室に行き昼飯を食べて、休んで、旅行記を書いた。

機内ではまたも多くの台湾人団体客が出現した。god!本当にひどい。やたら盛り上がって、うるさい。親愛な台湾同胞が公共の場所にいるときはいつでも、特に国外ではそばに他人がいる事に充分に思いつくとができれば、話し声の音量と行為も収斂できて、他人に良い印象を与えるのに。スチュワーデスの表情を見るととても良くない。この混沌とした環境の影響を受けるのを避けられないと僕は思った。僕は静かに急いで旅行記を書いた。帰宅後に怠けて書かなくなるのがこわいから。ついでにつまらないフライトの時間を潰せる。

~~おわり~~



徒歩旅行 2005 日本 8月8日   [徒歩旅行 2005 日本万博中部]  

2005/08/08遊記--春日山城、松本城、橫濱

5時に目が覚めたらもう明るかったので、窓を開けて眺めた。空はきれいに爽快だ。このとき列車が通ったので写真に撮った。ホテルと線路の距離はじゅうぶん離れてるので電車の通行音は聞こえない。この後また眠って、7時にアラームで起きた。

ここの朝食は和洋式のビュッフェだったので、ちょっと考えさせられた。こういう朝食スタイルはもう日本のホテルでは主流なのだろうか?でも部屋数の多いホテルならできるかもしれないが。人が少ないホテルだと提供しにくいだろう。チェックアウト時に今まで泊まったホテルで唯一「領収書」を手にいれたので記念にした。

直江津駅に行く時また迷った。原因は行き止まりの道が多かったから。僕は来た時の道を歩かずに、方向感覚にまかせたのだがこの迷路はささやかな間奏だった。春日山と直江津は一駅の距離だけだ。切符代140円。僕はおそらく撮影のために、切符を窓辺に忘れてしまった。下車後に探してみたがだめで、改めて切符を買い直すほか無い。どうせホテルの領収書があるから僕がどこから来たか証明できるだろう。でも改札員は中で休んでいたので、僕も買い直さなくてすんだ。改札員の行動から春日山が本当に小さな駅だというのが知れた。

駅内で春日山城址の地理図を見た。行けそうだ。図上では車で5分と説明があった。でも歩いたらどれくらいかは書いてなかった。僕は奇想天外に計算した。車が時速60キロで5分で着くなら、歩けば時速5キロだと60分で着ける。この時間のロスは許容できるから、歩く事にした。でも悲惨なことに春日山駅にロッカーはなかった。しょって歩くしかない。でもこの二日はより休んでいたので、体力も挑戦できるほどはある。このとき更に幸いなことだったのは、旅行ケースでなかったこと。さもなくば面倒だっただろう。バックパックを買ったのが正確だったことが再度証明された。

標示にしたがって前進する。うをお!太陽が暑い。フル装備で暑い太陽の下を歩くのがこんなに耐えがたいとは知らなかった。荷物の重さはまだいい。でも7日の洗濯物はもう。炎熱の高温の状況下で遠い道を歩くのはやはり問題だ。路上でバス停を発見した。直江津と春日山駅を結ぶ路線だ。見たところこの2つの距離はそう遠くない。次回ネット友人がもし興味がちょっとあって「上杉謙信」の春日山城に来るのなら、どっちの駅で乗っても行ける。ネット友人はあるいは思いつくだろう。僕はなんでバス停で待って体力を節約しないんだ?それは身に持ってる小銭が114円しかないからだ。そのほかは万札だ。バスに乗って金を崩せないのは怖いし、言葉も通じない、いたずらに悩むよりはそれでも歩く事に決めたのだ。

だいたい30分前後で、僕は「大手門」遺跡入り口に着いた。天守閣遺跡はまだ遠い。ただしつまらないアスファルト道路を歩くより、林間の歩道を歩ける。その心情と感覚は自然喜ばしい。そのうえ天守閣への道のりはまだもうちょっとある。道端の花や草木を愛でれば、精神と心の内にプラスの助けになる。いちばん重要なのは、酷暑の日差しから避けれる機会がよりふえる事。でもあるいは春日山城址は来る客が多くないのかもしれない。(天守閣前に着いたら僕一人だけだった)。開発する経費も無いのか、雑草がぼうぼうの景色の他には、怪しい虫が僕の身の回りを飛び回り、振り切れなかった。それからやっと富山で祭りのショーを見た時に手にいれた扇子を出し、今まさに是を使うのだと。『來個輕羅小扇撲流螢(扇をふってホタルを落とす?)』。うひょお。有効、有効!涼しくなるだけじゃなく、怪しい虫も我が身の近くに来させない。でも虫も妥協はしない。やはり歩くと僕に付いて来る。僕が歩きながら扇ぐしかない。

時間が過ぎた。もっと上に登るとますます骨がおれる。でも引き続きごんずくだ。どの遺跡も文字の説明があった。でも重要なのは僕が足を踏み入れたことであって、実態の建物があるかどうかは別のことだ。同時に分かったのはここの範囲は広大だということ。いったん復元工事をすれば、雄大さと完備を期待できる。風景と視界もとても良いだろう。「大手門(本丸へ行く場所)」と「景勝屋敷」の分岐点ではもう耐えられなくなったが、でもやはり本丸へ行く道を行った。帰国後に無念を残さないためだ。また疲れたがごんずくだ。僕は自分の意思の力を信じた。最後についに天守閣遺跡に着いた。虚脱、無力感を覚えた。でももう目的地に着いたのだ。ちょっと多く休めば、体力が回復できる。ここは見晴らしの効く地勢のいい場所だ。いつここに城が建てられたのかわからないが、今は荒れた草木とむき出しの土があるのみだ。

下山はとても気軽だ。上杉謙信の銅像をまた見つけるだけで、春日山城の訪問は完成を告げる。標示にしたがって順調に見つかった。いぶかしいのが銅像のところには意外にも歩きやすい石の階段や木の梯子のようなものが作られておらず、芝と土しかない。そのうえ周囲は狭くて、いいアングルで写真を撮るのはとても難しい。銅像のわきには神社があり、店も少なくない。喉が渇いたが、万札で120円のジュースを買ってお釣りをもらうのはすまない。だから春日山駅に向けて歩くしかない。この道中でも多くの自販機を発見したが、一番安くても120円だ。器用にも僕が身に持ってるのは110円だけだ。買えない。1万円を使うこともできない。このとき、昨晩部屋代を払った時になんで千円札で全部払ってしまったのか後悔した。今はこんなひどい情況になっている。千円札と千円分の小銭を手もとに残しておく必要に気づいていたのだが、一時の不注意でこうなるとは知るよしもなかった。さえぎるものとて無い天空が上に、30数度の暑い太陽の下で、大きなバックパックを背負って歩きつつ、見えるのは自販機のみ。心の中はいかんともしがたく、神様は僕を笑っているだろう。

苦労して春日山駅に戻ったのは10時58分。計算するとバックパックを背負って約2時間も歩いたことになる。決して骨折りではなかったが、でも冷房の部屋の中から外の目を刺すような日光を見た時、こんな中を歩いてきた自分に感服した。戻った時間は間違っていた。1時間の内に電車は無かった。時間の組み合わせがとてもひどい。待ち時間を休憩にあてるほかない。このとき僕は靴下を脱ぎ、バックパックを下ろして、体の熱を放散させてちょっと気軽になった。万札では自販機や切符販売機を使えない。青い空はなにも答えてくれない!30分待つと、切符販売員がついに出てきた。すばやく乗車券を買って、小銭でジュースを買った。とても順調だったが、思いもよらないことに、彼が僕に片道か往復なのかを聞いてくる。惨め!片道を買いたいが、なんて言えばいいのか。彼の言う片道がなんなのか、しばらく聴いた事も無いので、ジェスチャを使った。この切符を買う一幕が僕に片道の読み方をもっと注意させることになった。そこで「八王子」から「東神奈川」に行く時にある「片倉」の読み仮名に、駅員の音声をくわえると対して違わない印象があった。だから「片道」もすぐに覚えた。これも一種の収穫だ!

春日山から長野まで、風景は田んぼや林や山野が多く、わるくない北陸の風景だった。長野に着いてすぐに大阪へ行く列車のオーダーを待った。松本まで乗れるので、さらに列車を探す必要がない。松本までの切符は車内で車掌から補充券を買った。14時41分、松本着。先に八王子までの切符を買えば、後で立つときに慌しいなかで間違った時間の列車を予約してしまうことを避けれる。もっとも自由席を買って節約したので、どの列車にも乗れる弾力性があるのだが。それからバックパックを預けて案内所へ行き、資料を手にした(実はいらなかった。だってバスターミナルは前面の遠くないところにあるし、情報もとてもわかりやすい)。松本の周遊バスは北、東、南の3路線に分かれる。松本城へ行くには北線。片道100円、往復200円。一日券300円。ピークシーズンなら15分に一本。そのほかなら30分。松本城黒手門まで約6分かかる。

日本国宝四城はここで最後だ。時間の問題で門外で断られた犬山城をのぞけば、そのほかはみんな天守閣までのぼった。それで満足にしよう。松本城内にはとても多くの鉄砲の作り方と種類ぼ紹介説明があった。似たような紹介はほかの古城でもかなりある。ここでは特に当時の戦争武器の主力がもとの騎馬隊から鉄砲に変わったことを指摘しており、重要な戦争は「長篠」の会戦であり、武田家はこれが滅亡の原因になったのみならず、織田信長の統一の大業も進行が迅速になった。某所で見た銃弾のやりかたは意外にもアメリカの映画スターメルギブソン演じる「パトリオット」と同じで、面白く感じた。最上階(6階)に着くと、多くの人が座って涼しい風に吹かれていた。この場所はとても狭く、人は多い。僕も四囲の写真を記念に撮った後、すぐに出た。実は城の外観が美しく、雄大なのでいちばんの記念写真になる。きれいだなあ!自分と松本城を一緒に撮るため、一眼レフを持ったお年寄りに撮ってもらった。一眼レフを使ってるのだから、必ずやいい写真が撮れるだろう。でも惜しい事に彼は自分が移動してまでいいアングルで誰かを撮ることはしなかった。

園内を気ままにうろついていると、今晩松本城で第24回「薪能」の舞台劇が行われるのが分かった。僕は観賞に縁が無かった。今年は松本城復元工事50周年で、意義は非凡だ。それから「太鼓門」に行ったが何でもないのが分かった。この門を出て違うルートを取って違うバス停で松本駅に帰りたかった。歩きながら不安だった。来た道で戻ってバスに乗ればより確かだと思った。城の外周を歩いて戻ったところのバス停で待った。このとき遠くにもうバスが着くのが見えた。15分ちょっと待っても間に合いそうにない。しかも帰宅時間で道路は渋滞でバスが遅れている。よって僕は八王子へ行く列車を一本遅らせた。

最後に17時18分の電車に乗った。発車を持つ時間に、ホームで弁当を買った。食べた感じは悪くないが冷めている。でもホームの弁当でちょっと自信を回復させた。僕は平らげてから弁当の容器を記念に台湾に持って帰って使い、記念にすることにした。松本から後の景色は変化が生じた。家と建物が多くなってきた。甲府を過ぎたときは武田信玄を思い出した。川中島を過ぎたときには武田信玄と上杉謙信の五度の戦いを思い出した。甲府からは山梨では停まらない。活気と人口数の違いが分かる。いずれにせよ山梨市はしかし山梨県の県庁所在地だが、意外にも長野県は市に県庁所在地がない。こうして長野県から山梨県を通り抜けて東京都の八王子に着いた。それから乗りかえて東神奈川へ向かう。乗って数駅で大雨が降ってきた。車内では多くのサラリーマンが眠りこけていた。東京の都会生活は本当に大変だ!

東神奈川で降りてまた乗り変えて横浜まで。このときもう9時近い。横浜駅はそれでも相当の熱気があった。5年前にはじめて日本に着て旅行した時の道に迷ったことを思い出した。歳月の流れをひどく感じた。駅の中で成田あるいは羽田空港ゆきのポスターを見かけた。5年前にもこういう列車があったかどうかわからない。当時もしもうちょっと注意してれば、上野まで行って電車に乗ってもう少しで飛行機に乗り遅れる危険を冒すことも無かった。

駅となりのSOGOデパートに面白い時計がある。多くの違うデザインの頭を乗せた人形で、9時になると動き出す。一緒に時刻を知らせる音楽も鳴る。わるくない創意だ。スカイビルは見つけやすかった。だて駅から標示が始まっていたから。ホテルの形態は名古屋と同じ。ここも温泉式の休憩場所だ。でもさらによかった。寝椅子でテレビが見れるだけでなく、いわゆる「宇宙カプセル」のベッドも提供していた。こういう睡眠体験はものめずらしい。SPAからは横浜のきれいな夜景が見えた。本当にいい!

寝椅子で旅行記を書いていると、全部の人がテレビで小泉首相が郵政民営化のために衆議院を解散するニュースに釘付けになっていた。これは本当に大事件だった。(ネット管理人が旅行記をネットにアップした時(0925)、日本衆議院の改選(0911)結果で小泉首相は勝利を得た)。12時近くになって僕は自分のカプセルに入って休んだ。ここには小さなテレビと音楽もあり観賞できる。さらにアラームもある。空間も広いといえ、新鮮で面白く感じた。心中大変喜んだ。capsuleの睡眠体験は、本当に素晴らしい!
 



徒歩旅行 2005 日本 8月7日   [徒歩旅行 2005 日本万博中部]  

2005/08/07遊記--黑部峽谷

言ってみれば、ずいぶん長く寝ていたわけだが、でも6時半に起きた時、頭はまだぼんやりしていた。疲れはまだ解けて無いようだ。でも足を高くして寝たので、2本の足の疲労度がちょっとは軽減される効果はあった。朝食はまたビュッフェだった。でも気分は良くなかったので、多くは食べなかった。客はとても多かった。

チェックアウト後、駅にかけこんだ。時間はまだ早かったので、改札員は先に進ませてくれなかった。先にJR駅へ行くしかない。黒部峡谷を見終わって戻った後に直江津まで特急に乗るべきか普通列車に乗るべきか。まだ決めて無かった!時間の問題、これもまたJRパスを使わない欠点の多さのひとつだとわかった。富山電鉄に乗ると、人の少なさに驚いた。2両の電車は満員にならないようだ。意外にもさびれていた。僕一人だけで両脇の8つの席を独り占めできた。列車が進んでるときにも日陰の方に座ることができた。また足を上げて休められるので心地いい。沿線の風景は依然として古くて質素だった。田んぼが家より多かった。目に清らかだ。

駅に着くと200m先に「黒部鉄道」があるという看板があった。時間もいい。発車時間はすぐだ。切符を買うときに「欅平」のアルファベットを重い付けなかったため、書いてはっきりさせた。でも後で見たら日本語のふりがなが「けやきだいら」だった。それもいいと思う。ここは乗る人が多かった。普通車は窓が無い車両だが、安全感がないと思う。でも風景を見るにはとても便利だ。全体の視界ももっといい。作業員が各人に「中部国定公園」のマークの付いたゴミ袋を配る。みんなが山にゴミを捨てないようにだ。出発前に忙しく写真をとるサービスがある。これはもちろん金がいる。僕のカメラで撮るのを手伝いますよとの回答を得た。でも帰るとき見つけられなかった。撮らなくてもいいのだろう。

黒部峡谷は立山連峰と後立山連峰にはさまれた日本でもっとも深いV字型峡谷だ。黒部峡谷鉄道のゆっくりした運転に乗れば宇奈月温泉駅から欅平駅の間の峡谷の美景が観賞できる。行程は約1時間20分、全長20.1キロの途中に41個のトンネルと25の橋がある。

座る位置はとても重要だ。行きは右に座るべし。僕は後れて乗ったので、右側が満席だった。一番左は撮影によくない。人にさえぎられてうまく撮影できない。でも撮るしかない。遺憾の思いを残すことはできない。沿線の峡谷風景も悪くないようだ。たとえば「天然伝石」「百貫峰」など。もちろん右側に座って写真を撮れば効果はもっと良くなるはずだ。だって峡谷の風景は右側にあるのだ。左は山ばっかりで、撮影ポイントは多くない。列車の速度はとてもゆっくりだ。さらに交換でよく停まる。だから各駅では複線になり、路線を進むと単線になる。幸いにも風景は悪くない。山の中の気温は涼しい。気分を良くさせる。片道80分も苦にならない。ほかに面白い話としては、「釣鐘」駅の有名な万年雪も観賞に供しうる。

黒部峡谷の温泉資源は相当豊富だ。毎日3千トン以上の出水量があり、泉質は無味無色。音頭は90.8度に達する。鉄道沿線の温泉旅館と露店風呂も相当多い。峡谷を旅行しに行く時は、自然の景観を飽きるほど見るほか、入浴も最大の楽しみだ。黒部峡谷の最古の温泉は黒薙温泉で、宇奈月温泉の源泉だ。ここは早くも慶応4年(1868年)に発見されている。

黒部峡谷に着くと、帰りの席の予約をまずすることを知る。切符があればいいのではない(僕は往復切符を買ったが、それほど安くは無い)。だから僕も指示に従ってまず予約をした。この列車のよくないところは、席の位置を人に選ばせてくれないことだ。車両ごとに詰め込んで行くので、空の車両に座らせないのである。

まず駅の外の展望台で風景を見下ろし、地図を見て歩いた。歩いて歩いて疲れたころに家に着いた。重要な風景はみな修理工事中で通行できなかった。「猿飛峡谷」もだめだ。それならここで何をすればいいんだ?猿飛峡谷まで往復する時間はたっぷりあった。でも今行けない。時間がかなり余った。「奥鐘橋」のルートも悪くない。タロコ峡谷のような感じの道を歩ける。でも惜しい事に距離が短い。猿飛峡の前のささやかなルートはより峡谷に近い。でも距離は更に短かった。僕はもう歩調をとてものんびりさせた。でも1時間たたずに行ける歩道は全部歩いてしまった。こんなのに6千円も払ったのはボリボリだ。写真を多く撮るしかない。午餐也選在此處多待一會兒,用時間來SHARE一下單位成本,哈!

帰りは360円多く腹って特別車に乗った。つまり正常な車両だ。目的は違う乗車方式を体験したかっただけ。この種の席はもちろんより安全だが、でもガラスが邪魔して、カメラで景色を撮るのはもっと難しくなった。来る時と対して変わらなかった。だからうたたねをした。富山電鉄にまた乗った。この1時間半の車内で、旅行記を書いた。だって風景はたいして変わり映えが無いから。富山駅に着いた後、長い子と乗っていたなあと思った。だからJRは特急の切符を買った。(自由席にして節約した)あえて普通列車で揺られていく勇気は無かった。そしてロッテリアで昨日買いたかったファミリーパックのフライドチキン(6ピース)880円を買った。KFCが無いので加減して食べた。

この時間の自由席は人が多くなかったが、列は並んでいた。なので僕も並ぶしかない。時間が過ぎて、列が伸びた。こういうときにJRパスの良い所を思い出す。指定席なら並ばなくていい。JRも「宇奈月」に行く。それならやはり失敗だったか。JRパスならもっと多く節約できた。でも最初はもっと非JRの電車を多く使うつもりだった。だから今恨むべきではない。JRは定時と言うけど、僕が乗った17時8分の便は10分遅れて着いた。本当に不思議だ。乗って分かったのは人が多い事。でも席には座れた。6ピースのフライドチキンは僕に言わせればゲロまずだった。吐き気をこらえて食べた。飲み下してももうちょっとで反芻するところだった。

特急はやはり義理堅く、直江津に着いた。金を払っただけの値打ちはやはりあった。下車してホテルを探した。南口徒歩13分だという。でも南口は2つある。長い出口と短い出口では行く道が違う。どっちなのかわからない。このとき突然、金沢と富山のα1を思い出した。建物の上に看板があるはずだ。左右を観察するとやはりα1の看板があった。間違って歩いてたけど、α1の看板に向けて前進すれば安心だ。幸いにもこの方法を思いついたが、さもなくば2003年の「道中庵」YHの痛ましい事件が再び発生したかもしれなかった。

チェックインでちょっとした対話が発生した。でも非常にOKだった。α1は他のホテルに比べて多くの日本語新聞をサービスでくれた。でも僕に送られても無駄と言うものだ。ここが僕が最初に泊まったα1チェーンのホテルだった。感じは悪くない。次回も別の場所にα1があればまた選ぶだろう。部屋に入って窓の外の景色を見ると、9階に泊まる機会はほとんどなかったので、視界が相当よかった。きれいな部屋も僕の心を愉快にさせた!今晩はのんびりとした夜だ。だって6ピースのフライドチキンを食べた僕はお腹いっぱいだったから。ホテルに来る道にもなんの見所も無かった。いっそホテルでよく休むのも悪くない!



徒歩旅行 2005 日本 8月6日   [徒歩旅行 2005 日本万博中部]  

2005/08/06遊記--金澤城、兼六園、富山祭

昨晩時間を取って調査したので、金沢兼六園に行くバスはとても多いことが分かった。だから朝もゆったりとできた。朝食はビュッフェで、洋式和式の料理を自由に選択できる。これがいちばんいい。自分が食べたいものをたくさん食べれる。そのうえ僕も本当にそうしたので、ご飯を2杯食べて満腹になった。チェックアウト後、まず金沢駅に行き荷物を預けた。バックパックのいいところは小さなコインロッカーでも押し込めることだ。100~200円節約できる。

そして1番のりばでバスを待った。白川で会った中国語を話す一組の観光客と会ったが、意外にも、また挨拶はしなかった。今日はおそらく金沢城と兼六園に行くだけなので、往復バス代は400円だけだ。500円の一日周遊券を買うまでも無い。でも料金箱を見ると「両替できます」のランプが付いてない。千円出して周遊券を一枚買うほか無い。運転手が意外にも札を入れて小銭を出した。お金を入れるとランプがつくことを僕はやっと分かった。100円使ってこの経験を得た。予定の場所で下車したがなんの標示もない。でも前方の石の階段で上に登れる。自然、上に歩いて行った。そして右を見ると金沢城公園が見えた。左は兼六園だ。僕はまず金沢城を回る事にした。

今日の天気も暑かった。歩いていると疲れを感じる。僕の最初の目的地は「鶴之丸」休憩所でクーラーに当たることだった。日差しを恐れる自分に恥かしさがちょっとあったけど、でもここには「前田利家」とその妻「松」と金沢城の歴史の紹介がとても多かったので収穫は豊富だった。充分見た後もさらに見る時間を省くことができた。もちろんこの歴史で僕もまあまあのことを知った。前田利家が死んだ後の事はよくわからなかった。炎熱の太陽はもちろん休んだ後に温和に変わるうことはありえない。ただし僕もずっと亀のようにいることはできないので、やはり予定に照らして進む事にした。

先に本丸に向かった。ここはちょっと登る。でも幸いにもそれほどひどく疲れなかった。このときも太陽は暑かったが、多くの人は草取りや花植え、石を動かす作業をしていた。金沢の本丸遺跡はちょっと特殊だった。その三つの櫓跡は「十二支」の名が付き、「丑寅」「辰巳」「戌亥」と分かれていた。来る前にすでに金沢城には遺構しかないことを知っていたので、本丸にもなにも建築物が無かった。天守閣はいわずもがなである。「三十三間堂」から下に惰性で行き、行ってない場所へ向かった。金沢城公園をだいたいすべて歩いた事を確認した後、金を取る「五十間堂」に行った。先に「二の丸」案内所の前で休んだ。係員が僕にクーラーの風が当たるところに誘ったが、僕はちょっとじっとしてるだけのつもりだし、礼儀上、断った。待ちながら「五十間堂」を見ようかまた考えた。

五十間堂で兼六園と共同の入場券を買った(原価600円、割引で500円)。そして靴を脱ぎ「順路」の標示にしたがって歩いた。この建築物は古跡ではない。でも床が汚れたり壊れるかもしれないので、靴を脱ぐ必要がある。昔の方法でそっくりに建てたためか、主に木材が多く使われている。ポイントはどんな鉄の釘をも使ってないことだ。全部「木釘」を使っている。この建築法はまたテレビを使って説明されていて、観光客に方法を知らせている。

見学が終わった後、案内所でスポーツドリンクを買って水分を補給した。、もし日本語がうまければ、女性係員と雑談できたかもと考える。自由旅行の趣きがますます増えるが、残念ながらずっと努力していない。ちょっと雑誌を見てから出る。直接「石川門」へそぞろ歩く。(この門は夜になるとライトアップされ、とてもよい観光地になる)。このとき10時45分、ついで兼六園に向かう。

兼六園はおそらく来る人が多すぎるのか、切符売場の係員の負担がひどく、切符を買ったかどうか検査するパワーもなく、僕のようにいらいらして切符の検査に来るのを待つより、直接中に入った。どうせ僕は切符を持ってるのだから、買わずに入った嫌疑をかけられることもありえない。兼六園は「加賀藩」の私的な庭園で、土地はすこぶる広い。でもなんの古跡も残っていない。僕は兼六園の角を全部まわって、各出口から兼六園の外周も行ってしまった。いわばのんびりと歩く娯楽場所としては悪くない。でも特別な場所はなにもない。歴史的要素でここが日本三大名園になってるのだろうと僕は思った。東京之明治神宮御苑と同じ様に、行ったかどうかが重点なのだ。園内の景観も特に注意すべき物は無い。一通り見終わって出たときはほとんど12時だった。

兼六園は江戸時代の回遊林泉式庭園の特徴を今に残す代表的庭園だ。水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並んで日本三大名園と呼ばれる。聞けば兼六園はもともと金沢城の外周だったらしい。五代藩主綱規が現在の三芳庵付近に蓮池御亭を建てたので、蓮池庭と呼ばれてこれが兼六園の始まりと言う。12代藩主斉広は白河楽翁に頼んで庭園の名前を付けてもらった。兼六園は宋代に李格菲が書いた「洛陽名園記」の中の「広大、幽遠、人口、蒼古、水泉、眺望」の六勝を兼ね備えているので、故楽翁は兼六園と命名された。

園外には売店は少なくない。でも朝食べ過ぎたので、このときはまだ腹が減ってなかったし、記念品なんてものも買いたくなかったので、ただ通り過ぎて見ただけだった。遊園バスにまた乗って金沢駅に戻った。バスの中で妊婦に席を譲った。日本人は席を譲るのに再教育がj必要らしく、シルバーシートがとても多い。でも席を譲ってるのを見るのは多くない。これが台湾のほうが比較的良い点である。遊園バスのいいところは循環しているので、市内遊覧もひとめぐりできる。その時間は約45分。金沢駅から9つめのバス停の兼六園までは約20分。

13時に普通切符を買って富山県までゆらゆら揺られる。時間があるからこそこういう消耗が出来る。主な目的は休む時間を多くすることだ。結局朝の観光はとてもタイトだったので、体力の回復が必要だった。14時10分、富山駅に着いた。出てもチェックイン時間15時までまだ時間がある。富山と金沢は同じだ。駅の周囲にはホテルがひしめいている。東横インも駅の近くにあった。α-1は見たところかなり多いチェーンのようだ。僕は直江津で泊まるはずだ。富山のホテルの場所はとても探しやすかった。数歩も間違えない。でも時間はまだ僕をチェックインさせない。このとき14時25分。でも荷物を預ける目的が達成できたのでよかった。

ついで富山城址を探した。これは無駄足だった。だって僕が駅に行って情報を調べようとしても、誰も知らなかった。案内所もまた自由に検索できる資料が無かった。バスも富山城の名が付いたバス停は無かった。先に路面電車に乗ってぶらぶらしたくなかった。道路わきの市街地図を見ると、駅から富山城址までたったの670mだということがわかった。ちょっと歩けばOKだ。そのうえ駅の正面の道路は「城址通り」で、まっすぐ行けば着けるのだ。僕が泊まるホテルも途中にある。いい道順だ!

城址公園に近づいたとき、幸運にも今月5、6、7の三日は「富山祭り」があるのを知った。今日は土曜日だ。賑やかな式典があるかもしれない。ショーのために周辺道路は封鎖されはじめ、公園の周囲にも多くの露店があった。多くは飲食類だ。僕は先に公園に入ってぶらついて、天守閣のような建物を見た。だが「郷土博物館」にすぎなかった。また、修理中で閉館していて入れなかった。記念写真を撮るだけしか出来ない。園内には少なからぬ富山まつりの提灯がかけられていて、大舞台もある。夜に使うはずだ。

歩き疲れて公園の外のベンチでちょっと休んだ。突然喧騒が聞こえた。疲れてるのもかえりみずに、すばやく前へ行き見届けた。ダンス大会グループの出動だ。道理で音楽がこんなに大きいのか。僕がちょっと見ると、各隊員の構成は老いも若きもいて、どういう団体に属してるのか分からなかった。自治会みたいなのものだろう。でも見たところ富山人はとても一心に祭りを行ってるようだ。参加グループの真面目な様子にはとても敬服する。だいたい3分のショー時間で、最前列から最後列まで動き回るスタイルのショーがおよそ3回、かなり疲れるだろうと思う。全体のプログラムは1時間で終わった。推測すると20個のグループがいたことになる。今年は第45回の富山祭りで、参加者は幼稚園の年頃の子供もいて、うまく受け継がれているようだ。45年も続けるのは簡単にできることではない。

こういう祭典があるので、僕も午後の計画を臨時に決めた。ここで待つだけでいい。その間腹が減ったので、たこ焼きを買って腹におさめる。たこ焼きを食べたのは最初に日本に来たときだ。かつてはこれで夕食にした。だからその後日本に行くと特に注意を払った。これも懐かしさの感情だろう。4時過ぎになって近くの県民会館へ行き、椅子に座って休んだ。夕立が来て、さらに観光客が湧き出した。その後のショープログラムもみんなずぶぬれだった。このとき、席が無かった観光客も相当多かった。幸いにも僕は先に来たので休む椅子があった。うたたねもできて、とてもよい。5時過ぎ、室内の人の波が外に移動するのを見た。雨もやんだ。僕も人の波と外に出た。

第2部のショーが始まった。県民会館前というポジションはまさに最前列だったので、はっきり見えた。僕も一心に見た。ひとつのグループが人の多い少ないに関わらず、構成も関係なく、どの人も思い切って演じていた。ショーが終わるたびに、道端から心づけの飲み水が提供された。絶対多数の富山県民の観衆も出し惜しみせず拍手を与えた。多くの日本少女は和服を着て一緒に華を盛り上げる。これはまさに伝統であろう。何度か日本の祭りを見たが、日本女性の多くが和服で祭典に彩りを添えているのがわかって、とてもすばらしく思った。

この部のショーが終わり、僕は公園に行ってどんなプログラムがまだあるのか見たくなった。これ以上ない場所が自然と大舞台になっていた。どこでプログラムが見れるのか尋ねようとしたそのとき、突然また雨が降ってきた。小さな話は避けた方がいいと言うが、神様が大笑いしてるとは誰が知ろう、突然ぱらぱらふった雨がどしゃぶりになった。気軽によけれるものではない。和服の少女を写真に撮って旅行の記録にできるのに、この大雨では放棄するしかない。すばやく雨宿りした。祭りの集会、プログラムは平常どおり行われるだろう、だって大多数の人が傘を持ってるのだ。僕はよけながら県民会館へ全身した。もちろん多くの傘を持たない友人も一緒なので、惨めな思いをしないですんだ。でも県民会館に入ったら、不幸にも席が無かった。雨が小降りになったときに、出て夕食を探した。

富山駅に行きラーメンとチャーハンを食べた後、「富山電鉄」に行き「宇奈月温泉」駅の情報を調べた。平日と休日では数分の違いがあることがわかったし、全部の列車がうなづきに行くのでもない事も分かった。この点はとても重要だ。旅行中に不注意だと少なからぬ時間を遅れることがありうる。この後はもう富山城址公園には行かなかった。だって時間もほどほどだし、舞台でプログラうを見るのも雨が気にかかるし、ホテルに戻って休んだ方がいい。

ホテルに戻ってチェックインして部屋に入ってみると、わあ!本当にわるくない感じ!日本人は本当に心遣いだ。ホテル業をよく出来るのも理由が無いのではない。どのホテルも僕の心情をおおいに良くさせた。見れば綺麗で心地よいベッド、体の疲労はすぐに大半が吹っ飛んだ。かつこの「富山ROUTE」ホテルは祝福を代表する意味の折鶴をベッドの上に置いてもいる。観光客の身である僕をおおいに感激させる。これによってティーバッグのほかに誰かの祝福も持って行く事に決めた。

天気がとても暑いので、毎日ホテルに戻ると身体はくたくだった。過度の発汗はさらに身体を疲れさせた。だからいつも入浴後はとても眠かった。でも旅行記を書くために我慢した。でも今日はあまりにも疲れていて、歩き過ぎていて、立ちすぎていて、早く横になりたかった。このとき10時になっておらず、1,2時間寝てから起きて書くつもりだったが、誰知ろう次に目が覚めたのは翌日だった。かか。



徒歩旅行 2005 日本 8月5日   [徒歩旅行 2005 日本万博中部]  

2005/08/05旅行記--高山陣屋、白川合掌屋

朝のモーニングコールで起きると6時12分。これでも充分寝てから起きたと言いたい。朝食は昨晩食べなかったインスタントラーメン。中身は芋と青菜。部屋の木の窓を開けて外を見ると、道はとてもきれいで、とても心地よい早朝だ。インスタントラーメンを食べ終えて、ホテルを出た。

まず濃飛バスターミナルで高山>白山 白山>金沢の切符を予約した。口で言うのはパワーがとてもいるので、行程表の文字を指差しながら買った。今日に予約して席があるかどうか心配だったが、幸いにも憂慮すべき情況は起きなかった。今日が金曜日で休日ではないからかもしれない。!バックパックを預けてから、臨時にいれた「国分寺」と「高山陣屋」の行程を始めた。白川合掌屋はそれほど多くの時間は必要ないと考えたからで、バスの便を8時45分発から9時半発に改めて、45分遅らせた。

国分寺はちょっと探して見つかった。国分寺で思い出すのは去年の日本の旅で岡山駅で見たコナンのアニメポスターにあった国分寺だ。清水宗治が自害した備中高松にも行ったがそこにも国分寺があった。そのときは時間が無かったので国分寺には行かなかった。今日はその埋め合わせである。飛騨国分寺も高山の観光地らしい。早朝の国分寺はとても静かで、朝の体操をする日本民衆がいた。一周するのに5分かけて、記念写真を撮って出た。最初に建てられたのは奈良時代だ(西暦731年)。

またゆっくりと高山陣屋へ歩く。途中でさっき買った元気飲料で体力を補充する。昨晩すでに来ていたので、開門が8時45分だというのを知っていた。だから気ままにゆっくりとした足取りで向かうことができた。僕も特に横道を歩き、高山の道の多くを知った。写真の緑の橋は「柳街」という。とてもきれいだ。一般道路も舗装されてとてもいい。日本で車を運転する機会があれば必ずや気持ちいいだろう。台湾の道路のようにでこぼこだらけではない。8時25分高山陣屋に着いた。広場前は有名な朝市だ。台湾の伝統市場と良く似ている。でも多いのは野菜と花で、往来の人も多くない。これらがいまだにスーパーに取って変わられないのは尊敬に値する。その後僕は座りながら高山陣屋の開門時間を待った。8時40分に早くも門が開いた。僕もすばやく入った。だって僕の時間は多く無いから!

先に一周して写真を撮った。この陣屋はとても大きい感じだ。維持保存ももちろん悪くない。きれいで整ってる。さらに多くの作業員が掃除をしている。注意深さが見て取れる。靴を脱いで中を見る。作業員が解説してくれるが、僕は聞き取れないし、ゆっくりとその紹介を聞く時間も無い。機会を見て離れてほかの場所をすばやく見て廻った。室内の各所はすべて見れる。とても満足だ。時期もいい。8月はちょうど備蓄米、薪の蔵を開放していた。もうけものだ。高山陣屋の文物の保存はとてもよい。解説も多い。でも時間が本当に迫っている。説明を仔細に見ることはできない。多くの歴史描写を見逃した。とはいうものの時間があったとして見ても絶対に覚えてないだろう。しかし当座で理解したのは、それでも飛騨国の歴史の多くがわかったことだ。高山に白川ゆきのバスがなぜあるのか、実は古くは同じ飛騨国に属し、2つの土地は往来がしきりにあるためだ。飛騨国の歴史には数人の城主がいたが、「金森長近」が代表人物だ。その子孫の後、飛騨国は徳川家の直轄になり、「天領」とも呼ばれた。

9時15分になって慌て始めた。ちょっと走ったが、昨晩の経験でバスターミナルを見つけるのに心配は無い。7分で濃飛バスターミナルに着いた。幸いにも昨晩あらかじめ道を知ったおかげで、去年の鳴門駅の事件を再び起こすのは避けられた。ふたたび山田小姐に偶然会って見たいが、それは不可能だと僕は思った。もしこの便を逃すと、白川へ行きたい僕はどうすることもできない。僕が着いた時、運転手はもう切符を切っていた。僕はそそくさとバックパックをバスの荷物入れにいれてトイレに行ってから中に乗り込んだ。時間はまだ余裕があり、冷房はまだつけていなかったので僕は大汗を体中にかいた。風邪を引くのはごめんだ。

バスに乗るのは旅の必要からだけど、実はとてもよい休憩時間であもる。違う地方の景気の特色を気ままに観賞も出来る。予定では100分の乗車時間を僕はちょっとうたたねした。朝の疲労も溶けた。窓の外の山間道路の風景や課紙のような湖面にうつる青い山を見れば、元気に奮い立つ。「荘川」を過ぎた後、風景はさらに優れる。完全な田舎、山林の景観だ。白川郷はきれいな風景の変化を僕らに告げる。ここは一種の桃源郷なのだ。

バスは定時にせせきら公園に着いた。案内所はここにも便利にあって、僕が着いたと思った「下呂」ではないらしい。でも来た時間は正しかったし、大部分の人はみな降りた。バス停には「高山-白川-金沢」と書いてある。だから間違った場所で降りたのではないはずだ。先にコインロッカーを探して、バックパックを預けた。たったの200円。なんて安いんだ!次に感じたのは幸運にも旅行ケースではなかったことだ。さもなければこのロッカーの高さでは預けられない。でも案内所でも荷物を預けられる。ここで後に金沢行きのバスを待った時、観光客が案内所から荷物を手にしたのを見たので知ったのだ。

このとき11時10分。腹がとても減っていた。太陽がまた暑いのはお話にならず、僕はすぐに歩くのをためらった。先にご飯を食べよう。この近くにも食べるところはあるし、もっと舌に合うものを。ちょっと見てある店に決めた。どうせ根本的な差は無い。言葉が通じるかどうかも関係なく、「これ」を使って定食を指せば面倒が省かれる。時にはちょっと不精なのもいい。毎食正確な日本語を話す必要はない。僕は外国人だから。これはもちろんOKだ。店員も多くを話さなくてすむ。自分の多く休める。僕が注文した定食はここの名産飛騨牛だ。食べてはみたが、特に何も感じない。再度美食を浪費したが、食べたのと食べないのでは違う。ここで特に有名な朴葉味噌やもやしなどを飛騨牛にくわえ、その下から火であぶって完成。近くの店はみなこの看板料理があるので機会があればネット友人は試して欲しい。

食べ終わって歩き始めるも、太陽はびしびしと照りつる。太陽が沈むまで待つこともできない。それなら台湾で寝てたほうがましだ。ここまで無駄金を使ってやって来て何をするつもりだ?でも足を踏み出せば日向に出る。それもまた困難だ。雨傘が欲しい。(もちろんない。話にもならない。暑い日に傘をさすのは女性の特許だ)、帽子も無い。道路わきに停まる観光バスを見て、バスに乗って強烈な日差しを避けことにした。帰りは無論歩いて戻る。それもいい計画だ。ここから展望台まで観光地図では徒歩42分。もし太陽があんなに暑くなければ、往復歩けたはずだろう。でもバスと徒歩に決めたのは実は良かった。違う体験だから。節約した時間で別の場所も行ける。バスの運転手は道中とてもマナー良く車を譲った。特に狭いトンネルの入り口で。僕をとても賞賛させた。

たった7分で展望台に着いた。先に民間の「城山天守閣」展望台に行った。ここはきわめて展望がいい。白川荻町合掌村全部が目の下におさまる。ここには金を取る写真屋がいた。デジカメがこれほど普及していて、失敗したらすぐに撮りなおせるのに、ここでカメラで生計を立てるとは、おそらく儲けにくいだろう?このとき太陽の威力に負けて僕は各風景を一枚撮りおえると、すぐに木陰に入って涼んだ。本当にまぶしいのだ!旅行する季節を間違った。

それから荻町合掌村にむけて歩いて行った。城山天守閣展望台で見た他人が歩いていた道を歩くのだろうと思ったが、荻町城山遺跡を見た後に別の小さな山道が通行できるのを発見した。それで僕はもちろんこっちを歩いた。のんびりとして気軽だし、日差しの辛さも避けれる。この城山遺跡はアスファルト道路わきのダート道の方向にあった。もし注意して無かったら簡単に通り過ぎてしまう。だからネット友人でここに行く機会のある人は注意が必要だ。観光スポットを見逃さないように。合掌村へ行く小さな山道はとても短かった。山道の静寂を感じ取れないうちに山下に着いてしまった。僕は道の出口で左右を観察した。どこへ歩けばいいのかわからなかった。地図を取り出して見て、右側だと思い、小道に入った。でも安心できなかったのでたびたび振り返っては人の往来があるかを見た。うまいことに道の途中にあった合掌屋の方向がある標示を見た。ハハ!やはり逆方向に歩いていた。自分の方向感覚がとてもひどいとは知らなかった。それとも地図がはっきり書いてないからか?幸いにもそれほど長く道に迷わなかった。


太陽は依然として悪辣だ。僕は日陰を選んで歩いた。国宝文化指定の「和田家」に着いた、300円払うと中を見れる。入った大きな理由として日光を避けたかったのであって、中の建築を探究するのはついでだった。ここでかなり長い間じっとしてると、日陰の涼しい感じがとてもよかった。この決定は想定外だったのだが、ここは国宝で中が見れる唯一の所だった。観光地図にはほかに「神田家」「長瀬家」「明善寺」などの標示があったが、また金を払って入りたくはない。後悔はしない。だって一番重要な「和田家」に入って見学したのも、甲斐があったのだから!合掌屋はどれも似たり寄ったりだと思うし、ひとつ見れば充分だ。

荻町案内所に着くと、隣の観光バスから団体が降りてきた。なまりから台湾人団体客と判断した。うんうん。いいレベルだ。ここに来るんだから。でも彼らはガイドの意見と違い、自分で歩き回りたそうだ。僕もそう思う。ここは牛を放牧して草を食べさせたほうがいい場所だ。ごく短い2時間でも神社見学の手配もするだろうから、合掌屋全面を歩いて回る体験を見逃してしまうかもしれない。ちょっと聞いて僕も歩いたが、親しくなってはいない。隣の店で珍しい「白川茶」を売ってるのが見えた。白川茶は何か特別なものがあるのか?試飲を飲んでみると、うひょ!特にどうって事ない。僕には美食の旅は似合わないらしい。やはり自分の見聞を紹介するのが良い。どこにどんな名産や美食がなんていうのは適する人が行って紹介すればいい。

このとき2時半。「であい」橋からせせきら公園に戻り、予定が終わった。こ、これでいいのか?ぼけっとバスを待つのはつまらん!観光地図にしたがって「弥陀島歩道」に行った。でもちょっと見つけられないほど小さな道だった。であい橋にまた行ってせせきら公園に戻るしかない。橋のたもとでお爺さんに写真を撮ってもらう。彼がLCD画面を見ないで覗き窓から見てるのを見て、心の中ではたぶんこの写真は僕の意に合わないものになるだろうなと思ったけど、真面目に撮影アングルを取ってるような人に対して、不平を言うべきではない。

せせきら案内所に戻ると3時だ。時間はまだある。腹の調子はちょっと良くない。そばのトイレでちょっと要を足して爽快になる。愉快に出航した後トイレを出ると、また台湾人客に会った。荻町のあの台湾団体観光客だろうと僕は思った。彼らもたぶん日本の水がずいぶんときれいなのを知ってるだろう。だから洗面所の水を詰めている。でも案内所の隣にちゃんとウォータークーラーがあるのに!同胞愛に基づいてすばやく彼らに教えた。日本の水は生で飲めるが、でも公共便所の水は井戸水のもあるから、やっぱ気を付けた方がいいよ。

余った時間をどう潰そうか?周囲の地理環境を見渡す。弥陀島歩道を僕はもうどうやって歩くのかを見抜いた。再度であい橋を通り過ぎて、その脇の小道の下にも谷川沿いの小道がある。このとき僕はこの歩道を唯一歩んだ観光客になった。すこぶる冒険的な歩行だ。本当にいい感じ!前後に人はなく、楽しくなる。旅行の快楽を享受する。でも惜しい事に道は長くはなく、すこしで歩き終わってしまい、荻町の道路に上がった。前に弥陀島歩道を探したときに認めた小道だとこのとき実証した(写真がしめすように)、ただしそのときは敢えて確かめに歩かなかった。再び行くのを決める前だったが、弥陀島歩道の起点標示に向けて歩いた。

歩きながら弥陀島歩道の小道へ行けるかどうか心を注意した。「忠兵衛」のレストランに着くと、ここは合掌屋の有名な訪問スポットらしく、でもレストランとして使われている。どうせ合掌屋も現在新しく作られているのだ。外観が似ていればいいのだ。やっぱりすごい笑わせる!ここまで歩くのは度が過ぎている。ちょっと歩いて「基太の庄」わきのアスファルト道路に下りるのが正しい。本当にいい!だれも歩いていない。視界が広くていい場所だ。精神も元気にさせる。自由旅行ののんびり感は自然に生まれる。この種の体験も自分でただやってみるから知ることできるのだ。そこで鼻歌なぞをしながらせせきら公園の方向へ前進した。このときの空は雷が鳴っている。大雨が降り出しそうだ。

まったく美しい弥陀島歩道を歩き終わりせせきら公園案内所に戻った。やっと16時になった。バス停を見ると1台バスが止まってる。これも高山-白川-金沢だ。僕は時間が間違ったのかと思った。でも案内所はまだ閉まっていない(17時に閉まる)、どうも僕は奇想天外だ。実は残りの金沢ゆきのバスは17時10分発の一本だけだ。心の中が緊迫するのを間逃れない。時間を間違ってたらおしまいだ。16時15分、時間はまだある。昼食を食べた場所で「宇治金時アイス」なるものを食べようと足を踏み出すと、誰が知ろうか大粒の雨が落ちてきた。案内所の建物に慌しく引き返す。便所でゴミを捨てた後にまた出てみる。わあ!なんてすばやい変化だ。大雨がが滴り落ち、さらに大きな雷が落ちている。愉快!愉快!雨の中の景色は、美しい!もちろん、このときは宇治金時アイスは食べれなかったわけだが、幸いにも雨が降るのも計算に入れたので、予定は遅れなかった。

雨宿りの観光客の中に2組の中国語を話す客がいた。でも挨拶はしなかった。ほかには西洋人の外国人観光客が1組いた。知らぬうちに東洋人差別をしているのかそれとも生まれた環境のせいなのか、意外にも僕と他の観光客が彼のそばを通り過ぎようとしたとき、僕を手でさえぎった(押されたという方が近い)。心の中はとても不愉快で、彼をやっちまうこともできない。狭い通路で、しかもこの大雨の情況の中では、立っているどの人も通る人と体が軽く触れるのは避けれないではないか。どうしてそんな荒っぽいことをする必要があるのだ?周辺の数人が互いにどう動いてるか仔細に観察すると、東洋顔の観光客は誰かがとおるときは一歩退いて互いに譲っていた。これが正しい!こういう情況で、もし人々があの外人のように誰かにぶつかるのを避けるために手でさえぎるようなことをすすれば、それは喧嘩を売ってるのである。みんなが動き回らなければ別だが。

バスが来た時雨もやんだ。道中の風景は依然として優美で、山道は舗装されて滑らかだった。日本で運転するチャンスがあればと本当に願う。僕は必ず気分が良くなるだろう。金沢に着いた。バスターミナルとJRは一緒に並んでる。広場では一種特別な光景だった。さまざまなな鉄柱を組み合わせて作られている。地下歩道は別の大きな広場になっていて、広くて明るい空間だ。日本人は本当に空間をよく利用する。ちょっと大きな都市の駅ですでに何度も見ているとはいえ、でも台湾では珍しい。だから毎回見るたびに毎回感嘆する。僕らの政府もはさらに無駄遣いしないことを願う!

こんどのホテルは簡単に見つかった。ただしちょっと高級そうに見えた。ホテルの名前は去年岡山で泊まったホテルの名前と同じだ。印象が深かったのは、CASTLEの日本語カタカナのせいだろう。僕は何度考えてもこの英語を思いつけなかった。英語の名前を直に見るまでは。意外にも入り口を入ると白川であったあの2人の西洋人観光客が見えた。彼らと同じホテルを選ぶなんて本当に運が悪いと心の中で思った。その時彼らはチェックインしようとしていた。僕は見なかったことにして、明日の兼六園と金沢城でまた彼らに会わない事を願った。別の人がとても近くに来るのをたとえ西洋人が好きではないにしても、情況を見るべきだ、狭い空間ではみんな不便なのだ。荒っぽく人を押すのはマナーが無い。まして東洋にきてるのだから互いに譲る必要があるのをわかるべきだ。

シングルが無かったのかもしれない。僕の部屋はツインだった。でも台湾の国民イメージのために、もう一つのベッドには触れなかった。海外に出るときはルールを守ることを覚える、これがベストの国民外交だ。荷物を置いて夕食に出かけた。駅の中の商店街は相当多かった。「八番屋」のラーメンを選んだ。中の学生バイトは美人で悪くない。本当に幸運だ。食べ終わってから気ままにぶらぶらした。バスターミナルへ行って明日の兼六園まで乗るバスの場所と時間を調査した。ホテルに戻る途中、そばの地域公園で「納涼盆踊り」をやっていた。好奇心で行って見てみた。あ~痛ましい!きれいな美人がいない。多くは子供と年配の婦人だ。うんうん、どうせ彼らも楽しんでるからいいのだ。ホテルに戻って身体を洗い、ちょっと休んで、テレビを見て、とても疲れていたのか意外にも旅行記を書く前に寝てしまった。11時に目が覚めて旅行記を書いて、深夜1時半になった。



徒歩旅行 2005 日本 8月4日   [徒歩旅行 2005 日本万博中部]  

8月4日旅行記 愛知博覧会 高山夜の旅

思いがけずこのような開放式公共休憩場所でも喫煙区と禁煙区が分かれていた。旅行記を書くときは注意もなしに喫煙区の場所を選んでしまった。あちこちでチェーンスモーキングの煙が止まらない。ずっと咳き込んでるのに節制を知らない。僕が夜寝た後に煙草の煙や咳の影響が睡眠に影響するんじゃないかと怖かった。そこで禁煙区の空いてる席に場所を移った。寝椅子なんかでよく寝れるのか、綿の掛け布団で床に眠ったほうが爽快だと思う人がいるだろうけど、僕はOKに眠れた。ただ喫煙区からなりやまない咳の声が聞こえて睡眠の質に影響した。途中で何度か目が覚めた。それでも完全な不眠にはならず、早くも7時に起きた。

ここは温泉旅館であるゆえ、朝風呂に行き、充分に利用すると、とても気分が良い!その後荷物を整理してここから出た。ものめずらしい宿泊スタイルが終わった。そしてJRの駅に直行した。昨晩駅の近くをぶらついてたら、名古屋から愛知万博会場まで往復割引切符があるのを見たので、迷いも無く買った。大きなバックパックをまた預けて、朝食を買って列車に乗った。意外にも計画表で調査したとおりの時間だった。他の客は手にEXPOの資料を持っていて、どうやら万博に行く人がとても多いらしい。そのうえサラリーマンも加わって、列車は混雑した。幸いにも高蔵寺で下りた後はまあまあだった。

万博八草に着くと人がとても多かった。まだ会場に着いて無いのに。乗車券が自動改札に吸い込まれないのを知っていたので、続いて単軌のlinimoに乗った。この列車は待ってるときにもう水も洩らさぬ混み具合で、1階から2階のホールまで列が続いていた。どの車両もぜんぶぎゅうぎゅうだ。運転路線の視界は悪くない。果てしない風景が望める。ここは万博会場のゾーンだからだ。会場に着いて入り口を見ると巨大な入場待ちの波があり、まばゆい灼熱の太陽に弱音を吐きたくなる。でもすでにクレジットカードで券を予約してしまったし、後になればこれも体験として思い出すだろう。放棄する理由は無い。切符売場で買ってる人は誰もいない。みんな事前に入場券を買ったのだろう。だから前に聞いたように、はじめに予約して置かないと観光客の心中にはいらいらが起こりうる。今会場に来て見れば、券を買う人の劣も多くない。僕はカードで券を買ったので、券を後で手にいれる事もならない。大きな太陽の下で少しも日よけが無いままに入場を待つ。僕の後ろの女の子は我慢できずに暑い暑いとずっと叫ぶ。地面に座る事数度、ママは妊娠して大きいおなか。ママもとても辛いにちがいない。女の子もなだめないといけない。本当にかわいそうだ。会場の安全検査はとてもとろかった。民衆に飲み物を持ち込ませないために、バッグのなかを逐一検査するのだ。さらに金属探知機も加わり、まるで飛行機に乗るときの安全検査のようだ。そんなだから入場速度は自然早くは無く、僕らもいかんともしがたくずっと日に晒され続ける。

40分余りが過ぎて、ようやく入れた。僕が最初にしたのは意外にもみやげ物屋で買い物だった。本当に僕らしくない。そうしたのは体験のためだ。それに重要なパビリオンは予約がないと見る機会がないのも知っていた。だから先に買い物をするのがクールだ。パビリオンを見終わって買いに戻ってきたら、何も買えなかったなんてのを避けるために。これはとても重要だ。たとえば記念シャツのモデルやサイズは、先に買わないと合ったサイズが無くなる。記念品も同じだ。開店時が必ず一番そろってる。時間は無い。

買った後、給水サービスステーションで水を2杯飲んだ。どこに行って見ようかと思った。会場にトラムがあるのを見た。500円費やせば乗れる。速度は人の歩く速さとかわりないから沿道のパビリオンをよく観賞できる。そこで決めた。道をぶらぶらするのは不可能な任務だ。この暑さの中では。瀬戸会場(南駅)で僕らは早くも下りた。地図を見ると、外周の半分のようだ。一周しても仕方ないだろう。そこで付近をぶらつくと、ここはアフリカ区だった。どうせ特にどこへ行きたいでもなし、着いたところを見ればいい。気の向くままとあるゾーンまで歩いた。そこの芸術創作は瓶の中に詰めた砂に各種の色の細かい砂を混ぜており、講師はその巧みな腕前で瓶の外側にきれいな図案をあらわして見せた。例えば砂漠を行くラクダとか。廻りの観客もみな講師の技術に感服していた。

足を止めたりまた進んだりする気ままな僕の旅が始まった。やはり人気のパビリオンは、特に日本自身で人気のパビリオンは観覧する機会がもともと無い。予約をしなければ立ち看板どおり150分並んで待つなんてことになる。なので僕は放棄した。ナウマン象やロボットや新正規の車などなど全部隅に追いやった。でもその他の自由観覧ゾーンは充分ぶらついた。こんなにパビリオンが多くて目に暇が無いのに、逆になんの深刻な印象も残さなかった。書くよりもみんな写真を見てくれ。

その後ゴンドラで北駅に戻った。つまり連合新聞網で言っていた唯一タダの「交通システム」だ。でもそうじゃなかった。600円いるのだ。もしJRの往復割引切符があれば200円割引だ。僕はもちろん乗る。だって行き帰りで骨折るのも無意味だからだ。北駅に戻った後、数歩も行かないうちにもとは無料だった「万博-長久手」のゴンドラを見つけた。そこで僕は乗った。だって長久手の会場にも行きたかったから。このゴンドラは特別な所があると言える。つまり特殊処理されたガラスのロープウィだなのだ。ちょっと危険な場所になると、民衆が驚愕するのを避けるために、ガラスはスモーク状態になり、視線から住民を保護するのだ。こういう措置は良い。でも僕はいったい何があるのか見たかったけど、みんなの目があるので、立ち上がって人を怖がらせるのも良くないし、取りやめた。長久手に着いて一目眺めると、会場までさらにもうちょっと歩かねばならないようだ。時間と体力を見ればこれは許さず、ゴンドラ駅の広場で昼食を取った。少し休んで、風景を見た。万博会場に戻りまたちょっとぶらついて、道化の風船ショウを見た。太陽の下で苦しめられた身体は本当に疲れていた。愛知万国博覧会の行程を終える事に決めて、早い時間に出た。

午後2時ちょっとのlinimoとJRに乗って名古屋に戻った。JRの列車の中ではもちろん疲れて寝た。15時3分に「高山」に着く特急に乗るチャンスがあったが、バックパックを取りに戻ったら14時58分だった。もしJRパスがあればまちがいなく間に合う。でも事前に使わないのを決めていたから、もうすぐ出る列車に乗れないのもすぐに受け入ることができた。切符自動販売機でどうやって切符を手に入れるかわかった時にはもう15時2分だった。それならもう考えるな。そのうえまだ誤解していて、特急券しか買わなかった。価格調査をほとんどしてないので、過去の経験から僕が知ってるのは乗車券よりは安いことだ。つづく30分、どうやって乗車券をいじって出せるのかやり方を考えた。名古屋から高山に行く普通列車はない。だからこの区間を同じ値段の切符を買って使うことはできない。試しに切符自動販売機を操作しても買い足しはできないかった。最後に緑の窓口へ行き、販売員から乗車券を買った。幸いにもコミュニケーシンに支障は無く、順調に乗車券が手に入った。やっと安心して次に進める。

でもJRパスを買わなかったことは、高山での観光を1時間少なくさせてしまったので、やはりすこし後悔した。次回は絶対にこのようなことにならないようにしたい。全体の交通費の開きがとても大きくならない限りは。苦しんだこの30分の唯一の収穫は自由席と指定席の値段の差に気づいたことだ。車種と距離で違う割引がある。車内に座ると進行方向と逆向きなのに気づいた。慣れた手つきで座席を進行方向に変えたが、みんな椅子を動かす人は誰もいないのに気づいた。ずっとして岐阜の後にやっとわかった。列車の進行歩行は岐阜で逆になるのだ。本州から北海道へ行くのに青森で進行方向が逆になるのと同じだ。だからみんな座席を転換させなかったのだ。30分逆でも関係ないのだ。名古屋から高山までの沿線風景は悪くない。田んぼではなく、山林の鬱蒼とした光景で、心情をよくさせる。僕の旅行も正式に有名な飛騨の古国に入ったのだ。

高山駅に着いて道を探してホテルを探した。感覚は悪くない。4200円で安い。ここは以前は逗留宿だったので、僕も茶を飲みながら旅行記を書いた。その後外に出て夕食を探した。「中華ラーメン」の店があった。客の出入りがとても多いように思えた。ラーメンとご飯を頼んだ。、客はとても多い。店員もとても忙しい。何度か日本に旅行に来て、日本のラーメンの按配に慣れてしまった。特に、気軽にお冷やを取りに行って、腹をすかしながら食事になるのを待つ時間は、幸福を感じる。食べ終わる。時間はまだ早い。町をぶらつく。歩いて見ると、高山市はまだ賑やかなのがわかった。とても多くの商店街からもわかる。これは僕の前の偏見ではないが、ここは辺鄙で人家の無い場所かと。今晩は気温もちょうどよく、道歩きも心地よい。

大通りにせりだした案内板に従って、高山陣屋へ行く。ここは明朝の予定だったが、時間をちょっと急ぎたいので、先にルートを確認して時間を節約したい。ライトアップされた夜警を後に高山駅へ戻った。濃飛バスの予約時間は過ぎていたので、明朝また来るしかない。それから向かいのファミマーでインスタントラーメンを買ったのは、腹は減ってないが、ただ安心を買いに来たのだ。旅行記を書いて寝るのが遅くなり、もし腹が減って寝付けずにまた買いに行くのも面倒だ。帰る前に先に買っておくに越した事は無い。このコンビニの買い物客はとても多く、高山が旅行で必ず行く場所で、交通の要衝だとわかる。これらの人は見れば観光客だ。

夜食を買い終わってホテルに戻り、風呂に入り、茶を飲み、テレビを見て、旅行記を書いた。これが僕が寝る前に感じる気軽でゆったりした時間だ。



徒歩旅行 2005 日本 8月3日   [徒歩旅行 2005 日本万博中部]  

8月3日旅行記 名古屋、犬山城

2003年に北海道に行った時ユナイテッド航空のサービスは良くなかったので二度と乗らない決心をした。でもユナイテッドの航空券は今回の日本の旅ではほかのより安かった。なのでまたユナイテッドに乗った。

朝6時5分、住んでるところから車で出た。車を選んだのは某会社のクレジットカードで航空券を買うとパーキングが無料になるからだ。そこで空港に近い駐車場にとめるのをやめて、便利なほうを採ろうと思った。でも運が悪くて地下駐車場は満杯だった。屋外に止めるしかない。愛車に7日間の風雨と太陽や台風ををさらさせるのは憂慮したが、旅行から戻っても車に何の以上が無い事を望む。

UAの安全検査はより厳しかった。チェックインの前にまず荷物が検査された。今回僕は荷物を預けない。直接機内に持ち込む。規則に合っている。出国して少し待つと荷物もスピードが速くなるし、荷物が出てくるのが遅れたりロスとするのを防げる。習慣で窓際の席をやっぱり要求した。僕がちょっと注意したのは僕のボーディングパスに「エコノミープラス」とスタンプがあることだ。ない人もいる。機内に入ってわかったのだが、座席の前後の距離がゆったりしている。
帰りはプラスの席ではなかった。比較してわかったのは、UAは小細工をして同じエコノミークラスの一部分をプラスにしたのだ。西洋人はみんなこの区分にいる。その他の人は運の幸不幸による。どうせこの区分のスチュワーデスは西洋人ではないし、さもなくばEnglish spokenだ。ああ、航空会社にはこういう権利がもとからあるのだがでも差別的態度であるのも明らかだ。もしチケット代が異なれば僕は受け入れるけど、でも明らかに同じなのにこういう区分をするのはどういうことだ?

今回は翼のあたりに座った、この座席は良くない。離陸着陸時に地面とのカメラ角度を妨害するからだ。視界も良くない。UAのスチュワーデスは年寄りで、2003年に加えて今回も、わざとやってるのかと思わずにいられない。サービスも良くない。

13時半、中部国際空港に着いた。入国審査時のイミグレで僕はホテルの名前を書いた。本当に詳しく精密な住所も。イミグレを出た後、表示にしたがって簡単に名鉄の駅を見つけた。本数が多いので、値段を見てから一番速い列車の切符を買って乗った。もちろん運転ルートもはっきりしている。僕が乗ったのは御嵩行き急行列車だ。だから大川田で特急と新快急の待ち合わせをした。どうやら帰りはもうちょっと優等な列車に乗る必要がある。

名古屋に着くと泊まる場所を見つけないと。コピーしてきた地図を見る。名鉄、近鉄、JRが並んでいるので、最後の一日は時間を急ぐことになるかと心配していたのだが、中部国際空港から名古屋に着いたら、一切安心だった。なんの問題も無い。

でも旅館を探すのはうまくいかなかった。どうも避けられないようで毎回起こる。もちろん最後には見つかるのだが。そうやってホテルを探している過程が、時にはおもしろく感じる。これも自由旅行の特典だ。ホテルに着いて靴を先に脱いで靴箱にいれてチェックインする。このときからちょっと疑惑だった。すごい怪しいホテルだ。僕は客と同じ動作をした。つぎに鍵を受け取った。でもちょっとぽかんとした。だって部屋が見つからないのだ。同じ番号のロッカーはある。またあたりを探す。写真のような寝椅子を発見した。そこで突如悟った。これは簡易睡眠所だ。部屋はないんだ。ロッカーは荷物入れだ。入浴はSPAだった。回数、長さは自分で決める。だって公衆浴場だから。でも列に並んだり待たされることも無い。夜眠たくなれば寝椅子を探せばいい。こういうことがわかったので、僕はちょっとうれしかった。だって違う泊まり方を経験する機会だから。自由旅行は本当に人を魅惑する。幸い、今回の荷物はバックパックなので小物入れにちょっと詰め込めばよかった。もし普通の旅行ケースだったらどうだったのだろう。ネット友人各位は知ってるかな?これが日本で流行しているSPA温泉旅館だ。

荷物をおいて、ミニバッグを持って外に出た。外に出るときは鍵をカウンターに置く。名鉄の駅までまた行って、「犬山城」へ行こうとした。路線図を見ると、御嵩行きは犬山遊園まで行かないのが分かった。でも犬山駅で乗り換えれば行けるだろうと思った。やはり犬山に着くと、すぐに岐阜行きの列車があった。犬山遊園に行ける。だが後で分かったのだが、この2駅は遠くない。どこで下りても犬山城に行くにはOKだ。しかし歩く距離は犬山遊園のほうが近くて10分かかる。

犬山城へ行く道は悪くない。僕もいいアングルで自分を撮った。幸いにも犬山城へ歩くときに犬山城が撮れた。さもなくば無駄に歩いたことになった。僕が城門に着いたときにはもう門が閉まっていた。門前には鐘があり、あと1,2分で5時だった。切符売場には17時に門を閉めると説明があった。最終入場は16時半。夏なのに冬と同じ開放時間なのはどういうことだ。犬山城は特に無情だ!。ああ~はっきり調べてこなくて門前で拒まれた自分が不思議だ。日本に来て最初の活動は意気阻喪して順調ではなかった。あたりを歩いてたわむれに撮って遺憾の情を示す。

それから犬山駅の方向へと感覚で歩くと、思わず犬山遊園駅へと向かう道に戻ってしまった。ちょっと横道に逸れて違う道を知るのも自由旅行ならではだ。回り道をして距離がちょっと遠くなるとすこし歩き疲れるけども、心理的には悪くない感じだ。これも一人旅特有のやりかただ。こういう情況になっても友人にすまなく思う必要が無い。路上の景観は言うべき物はないが、総じて異国の風景なので、やはりものめずらしい。

犬山から名古屋に乗って戻る。僕は最前列を選んだ。なんで運転士が座ってないんだ?それなら安心だ。運転士は後ろだ。前にシーンがあって怖くない?僕は本当にこの設計に感服する。実に納得が行かない。まさか乗客の視界を良くするだけに?

名古屋に戻ると同時に僕の自由時間になった。怪しい!僕は自由旅行してるのでは?なんでそれなのに自由時間があるのだ?全部自由時間じゃないの?僕の説明を聴いてください。計画を立てればもちろん実行する。計画の無いところが自由時間なのだ。現在、自然にも夕食を探しに町をぶらついてる。こっちを見てあっちを見て、胃にいれて腹一杯になりそうなものが欲しい。最後にとんかつ定食を選んだ。宿泊費を出して、乗車券を買って、物を食うと旧札がすばやく飛んでいき、期限が過ぎるのをまのがれる。次回日本に来たら使えない。これっぽっちのお金は僕も損失には思えない。ハハ!

19時20分に食べ終わった。時間はまだ早い。でもショッピングは僕の趣味じゃない。なにも購買欲が無い。本屋でてきとうに書籍を見るか。日本人は本当にオープンだ。エロ本もそのまま手に取れる。それから3C売場をぶらついた。
デジカメ、カメラ、台湾のフイルムを比べると、本当に安い!でも買いたいとは思わない!8時になると、人が散り始めた。デパートもどんどん店を閉める。僕は頃合を見てホテルに戻った。

郷にいれば郷にしたがえ。入浴時もルールを守る。僕が見たところ、みんなかごに脱いだ後浴室へ進んだ。僕もそれに習った。前面にはここが温泉式旅館だと掲げているので、入浴もとても楽しくて面白かった!ふつう台湾だと僕はサウナにほとんど行かない。日本に来ると温泉国なので試して見たくなる。わ!本当に暑い。座ってられない。立ってちょっとして外に出た。浴室から出ると、消毒済みの服が提供されている。短パンも無料で使える。まるで囚人服みたいだ。こんな経験は本当に面白い。次回機会があればまたこういうスタイルの宿を試したい。入湯後の全体の精神はとてもよい!

それから寝椅子を探した。こっちではみんなテレビを見てるし、こっちでは旅行記を書いてる。とても気軽でのんびりした感じ。2つのテレビ番組の印象は深刻だった。一つはたくさんの組み合わせたパイプで水流噴射の研究をして原盤の上に座る人が引力を克服して地面から離すもの。二つ目は、日本各地の野良猫に魚をくわえさせて。最後にはどれほどくわえられるかを見るもの。つまらないかもしれないが、面白くもある。ただ日本人の研究精神が本当に感心なのがわかった。日本の研究開発能力が世界の先端をずっと走ってるのも不思議ではない。小を知り大を知るこの種のテレビ番組はとても多い。



徒歩旅行 2005 日本 まえがき   [徒歩旅行 2005 日本万博中部]  

まえがき
もとより今年は日本にまた行くつもりではなかった。だが愛知万博があるゆえ、会いたくて会うのではなく、機会を逃がしたくないので毎年の出国の機会を日本に与える事になった。最初は5、6月にするつもりだったが、同僚と一緒に上海と蘇州へ行ったので、これまた日本へ行く時期を延期せざろうえなかった。時期を見れば、夏休みの航空券、ホテル代は値上がりするのは分かっていたが、北海道のような高緯度地方に行くのではない。だから計画では9月に行けば、天気もより爽快だろう。愛知万博も終わりに近い、これも意外な収穫だ。

しかし人事は天命に逆らえず。会社の上層部で本部門を売却することが決定された。7月の間同僚の人心は打開策を求めて紛糾していた。売却がまだ決まってもいないのに、7、8割の人がもう出て行った。僕もやもえない情況で、打開策を考えた。この期間、内心は千々に乱れた。この会社を離れたくなかったからだ。でも現実に8月になると、仲のいい同僚たちはいなくなっていた。わたしはただいたずらに感慨が増すだけだった。ましてこの巨大な変革は、会社に対する落胆、失望をさせるに十分だった。どんな将来性があると言えよう?この理由で僕も9月までいることはできなかった。日本行きは繰り上げるほかない。

幸いにも一人で決めた。やはり仕事を変えよう。7月20日に航空券を予約し、8月3日~9日に行く事にした。有給を全部使うのだ。出社日に帰るため、だから航空券も順調にうまく手にいれた。それから部門の主管に口頭で辞意を告げた。日本の旅から戻った後の1週間で正式にこの会社に出勤する日々が終わる事になった。一緒に上海蘇州へ行った同僚もこの先7つの違う会社に分散することになる。こんな変化は一緒に旅行したときにはまったく思いつかなかった。世の中の変化はドラマのように劇的だとは誰が思い付けただろう!

去年の経験から、7日の旅での6泊は違う場所に泊まる。手提げかばんは持ち運びに不便で、場所移動のときに疲れやすい。そこで今回は両肩に背負うバックパックを使うことにした。持ち運びに便利だからコインロッカーに出す金も少なく出来る。僕が買ったのは親子式バックパックで、分けることができて便利だ。大きい方のバックパックがいらないときは、小さいバックのほうを持って気軽に観光地に行ける。こういうフレンドリーなバックパックを見つけてとてもうれしかった。

JRパスは今回の旅では買わないことにした。3日間は使えないと言っても、僕の行程は北陸、関東を時計回りに廻るので範囲が広い。交通費はやはりJRパスの金額を超えてしまう。だから買わないのは、そんなに多くの出費を必ずしもしないチャンスがあるからだ。(優等列車だけに乗るので無ければ可能だ)。だけどお金を節約するやり方はこれがメインじゃない。前に行った時にJRは
各地に割引切符があることを発見していたのだ。今回僕は北陸、関東などで割引切符に出会えるかもしれない。そういう節約も隠された割引切符を僕に買わせる経験になる。これがJRパスを買わない理由だ。運が悪くて割引切符を
買えなくて行程が順調に進んで僕が優等列車に乗っても、それでもJRパスを買うのに比べて5千円しか違わないのだ。賭けてみよう。

宿泊は、夏休みは本当に値段が上がる。東横インもはっきりしていて平均千円値上がりしている。高いのがはっきりしたので僕は東横インを考慮するのをきっぱりやめた。「旅の窓口」で宿泊ポイントを決めた。ちょっとひどい場所だと、3つとも朝食つきではなかったりした。とても不便に違いない。ホテルに行ったら実は朝食を提供していることを願う。もし無くても、金を払えばそれで問題ない。日本の和食朝食は僕の口に良く合うので、あるのなら必ず買うだろう。2003年を思い出せば、旭川のあの宿はネットで部屋を予約した時は朝食がないと言ったが、実は金を払えばあったのだ。今回も同じ様な幸運があらんことを。



徒歩旅行 2005 日本 top   [徒歩旅行 2005 日本万博中部]  

自由旅行はずっとこれサイト管理人の最も愛して要るところであり、なぜならば心の欲するままにできるからである。
今回転社の空白を利用して、再度日本へ行って遊ぶのである。
行程は名古屋より始まる、愛知万博を見逃さないためである。
それから飛騨高山を乗り変えポイントにして、世界文化遺産の白川合掌屋を拝観する。
加賀百万石物語の金沢城、日本三大名園の兼六園。、
富山の夏祭りに偶然であい、黒部峡谷の風景を一覧し、春日山城の城壁を登っていく。
松本城、鎌倉の鶴岡八幡宮、大仏、小田原城などなど。
日本9県と東京都をカバーし、最後にはまた名古屋に戻る。
旅程でバックパックに衣服を満載したのと同じ様に、記憶を満載して帰ってきた。今になってもまだ旅の一切が懐かしい。

 

原文

http://www.wayfarer.idv.tw/




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