2002 日本北九州之旅(0807~0811) [徒歩旅行 2000&2002 日本]
原文:
2002 日本北九州之旅(0807~0811)
http://www.wayfarer.idv.tw/Japan2002/KidaKyushiyu2002.htm
夏休みは、九州を選んだ。2002年の残りの有給を使って行った。
九州は42000平方キロある。幅広いが、休みはあまりにも少ない。九州北部だけ行くことにした。
ホテルの関係で、関門海峡を通って本州をちょっと見たのは意外な収穫といえよう。
出発
今回の福岡ゆきの飛行機は8時40分、その後の活動に影響が出る早起きはしたくないものだ。
奮発して予約したタクシーが住処に来て僕を乗せた。片道千元。車種はBMW。納得。
チェックインのときまたも幸運が起きた。僕はまたもビジネスクラスにクラス変更された。すごい!
団体でみんなと動いていたら、こんな機会はありえない。
イミグレで拘束される
福岡国際空港に着くと、どんどん前に向かい、行列に並ぶのを避けようとした。
残念なことに今度の旅で一番忘れられないことが起きた。
問題は、旧パスポートの写真が兵役時に撮った白黒の写真だった。
税関女性職員はおそらく僕が中国大陸から来たと思ったのだろう。
脇で待つよう促し、連絡を取り始め、僕の新旧パスポートを照合し、さらに身分証を取り上げた。
荷物をぜんぶ開けて、財布もだ、クレカも持ってかれて検査された。
税関の人の権力をはじめて見た。ホントに運が悪い!
彼らが僕に尋問する。日本に来た目的、日本での宿泊地、どこを旅行するのか?言葉が通じないことが多かった。
こんなことになったとはいえ、僕はそのとき貴重な時間が遅れてしまうことを除けば、心の中ではとても安心していた。
だって僕は日本というこの国家を信用していた。問題にはならないと信じていた。
それから僕はかつて広州に住んだことがあり北京語のわかる林田実習生に僕のいきさつを説明した。
検査に問題がなかった後、彼は僕を福岡国際空港と国内空港の連絡バスまで送った。
(国内空港には地下鉄が通ってるからだ。両者の距離は遠くなく車で5分)
荷物を安置
地下鉄福岡駅では、地下鉄の路線をしっかりと理解しないといけない。
福岡はまだ地下鉄建設が普及してない。
ほかの場所に行くには博多でJRに乗り換える必要がある。
博多に着くと、どうやって行けばいいのか迷った。なんと僕のホテルに行くには1080円かかるらしい!
先にチェックインする計画は変更しないと。
だって往復で2160円使うとなると、かなり痛い。
そこでまずロッカーに荷物を預け(600円)、夜に着くことをホテルに連絡した。
この臨機応変の即断で千円ほどを節約したとはいえ、
九州の広さを知ることとなった。交通費は僕のもっとも重大な負担に変わった。
大宰府
次の観光地は心の中で決定した(もちろんガイドブックにも紹介されている場所)
天神から福西電鉄に乗り換える必要がある。
(運賃は別。JRではなく、地下鉄と連絡している)
さらに二日市でまた乗り換えてやっと大宰府に着けた。大宰府は小さな駅で、静かだった。
標示にしたがい、両脇に小さな店が並ぶ通りを経て、太宰府天満宮に直行した。
昼飯がまだだったので、昨日台湾で買ったチーズを取り出し、
東屋に座って、風景を眺めつつ、チーズを食べた。
このとき午後4時、周りに観光客は少なく、なので旅行の感じも出てこなかった。
天気はとても暑い。しかし心境は平静で快適だった。
天満宮は孔子廟のようなもので、菅原道真を祭っている。
廟の中にはおみくじがあり、学業テストが順法でありますように、公務員試験に受かりますようにとかそんな願いだ。
やはり孔子廟と同工異曲だ。
道を歩きながらぶらぶらと、目的も無く、林の中の小道を進んでみる。
平日の午後、寺の中の商店の人も手持ち無沙汰で、呼び込みもしない。
僕ものんびりあちこち気ままに歩いて楽しんだ。自分がリラックスした感じだ!
天神繁華街
それから福岡最大の繁華街、天神に向かった。
この場所は駅がある地下街、中央街だけでなく、ほかの道路の通りもにぎやかだ。
人の群れ、たくさんの店、その中に身を置くと遊び尽くすまで帰れないような気がしてくる。
何を買おうと思わなくていい。完全に自分を旅行者にすることだ。
異国の繁華街を体験し、日本政府と人民が自分で作ったこのような買い物環境を感じに行くのだ。
交通便利、商品がそろった店、広大な場所に連なるショッピングセンター。
食事は難事
4月に京都、大阪に行ったときと同じように、
ちょうどいい(味、値段)場所を探すのは至難だ。
この広大な場所を何時間もほっつき歩いた(デパートのような高さのあるところは行かなかった)
意外にも足がとまる場所が無い。
ガイドを見れば赤坂がラーメンで有名で、地下鉄で便利にいける。
残念ながら、ガイドが古いのかもしれないが、そこに書いてあった「小吃攤」は見つけられなかった。
博多駅に戻り、700円の牛肉麺を食べた(食券だ)。
9時近くになってやっと初日の夕飯が解決できた。
一食200台湾元で折り合いつければ、安いといえるだろう。
八幡帆柱民宿
夜10時に僕が予約した民宿に着いた。
民宿はもちろん星つきホテルとは比べられない。
だから玄関に入ってもフロントに女が一人いるだけだ。
彼女と値段について交渉し、キャッシュで、毎晩朝食つき5600円で決まった(消費税5%のぞく)。
朝食つきシングルが1600台湾元ということだ。
三つ星ホテルより1200元近く安い。だからこれからは民宿に多く泊まろう。
すでに言ったように、この民宿はちょっと高級な民宿で、値段もそれ相応だった。
今度は幸運にも畳の日本式部屋に泊まれた。
部屋にはエアコン、テレビ、テーブル、電気ポット、毎日くれる3つのティーバッグがある。
トイレ、バスは寝室の外にあるが、でも部屋の中だ。歯ブラシ、歯磨き、ボディーソープ、シャンプーがついてる。
だから大体の設備はぜんぶそろってる。
日本人はきれいさを愛する天性があるので、僕は快適に愉快に泊まることができた。
毎晩帰ってきて、部屋の木のドアを開けると、畳の香ばしい匂いが迎えてくれる。
すがすがしい感じになる。すばらしい匂い。極めて良い香りだ!
朝食
帆柱旅館の食事をする場所は、10個も無い小さなテーブルだったが、かなりきれいで、テーブルの上が油まみれなこともなかった。
台湾のテーブルのように雑巾で拭いた跡もなく、とてもキラキラ光っている。
4度の朝食も見たところすべてこのようで、人に良い印象を与えた。
女一人で料理を作り、テーブルに運んでくるのは、コストのせいだろう。
ある面白い事情を発見した。
宿泊客はホテルの二人の女性従業員が厨房にいるのがわかると、
厨房の入り口から彼女たちに「いただきます」と「ごちそうさま」を言っていた。
もちろん僕も後からそうした。
ほかには、外出で鍵を預けるときは、
カウンターにある小さな呼び鈴を揺らして、厨房でてんてこまいのフロントの女に知らせた。
(台湾の道士が使ってるあれにちょっと似てる)。でも一度揺らしても1回しか音が出ない。
僕は心の中でもし一度に何度も音が出たら、
道士の作法と同じじゃないか、と面白くなった。
我に返って、僕は試さなかった、笑い話にされるのはいやだから。
あ、そうだ。4度の朝食は台湾粥の特色がとてもあった。料理は合わないとはいえ。
でも朝食は僕には一番重要な食事だ。
昼飯、夜飯は僕にとっては、時間も不規則で、値段が高くて、まずかった。
だから朝食はいつも2杯以上食べて、1日の旅行体力に備えた。
大分往復の痛い交通費
北部九州を見る予定だったので、2日目はまず大分に行くことにした。
それから阿蘇火山、熊本城へ。
でも事前準備が足りず、距離の概念もなく、乗り間違いも多かったので、
無駄な交通費が出た。予定通りの計画もかなわず、さっさとまた大分に戻った。
その日は自分が頭いいと思って時間を空間に取り替えた。
普通列車、快速で八幡>西小倉>行橋>中津>宇佐と来た。
あと1度乗り換えれば大分に着けそうに見えた。でも宇佐から大分に行く普通列車が無い。
「特急」に乗り換えるしかない(2千円払った)。
そのうえプリペイドカード(まだ1100円あまってた)で入場していたが、ここでは出ることができない。
だから大分まで計3100円払った、痛い!
帰りは時間を節約するために、直接特急に乗った(3970円)。まったくやばいほど速かった!
しかし僕は残りのプリペイドを使ってその3970円を払った。2日間有効だ。
そこで僕は日をまたいで詐欺で電車賃を節約した証拠となった。このことはあとでもう一度書く。
もし特急の大分までの往復券を買っていれば5000円前後ですんだ。
これが僕の心痛が崩れるようになった原因だ。この電車代だって目が飛び出るが、でもまだ節約してるほうだ。
もちろんその値段が僕が普通快速に乗った原因だ。
人のやることは思う通りにはいかない。事実は逆にもっと惨めになった!
乗り換えて4時間かかったのに(待ち時間含む)、
帰りの特急はたった1時間半で行ったのだ。
大分
大分に着いたが、時間が足りない。でもぶらついて見るには充分だ。
駅の周辺を見て回ることにした。駅を出ると前方の広場に大友宗麟の銅像が見えた。
誰だかかわらない人もいることだろう。
すでに「日本戦国時代」のPCゲームをしばらく遊んだことのある僕にはイメージがあるのだが。
彼は当時活躍した九州の大名で、秀吉とだいたい同じ時代だ。
そのことはもういい。このとき午後2時半。腹減った。
駅の隣にラーメン屋がある。はやく飢餓状態を解決しよう。
聞けば九州ではとんこつラーメンが有名だという。それを頼んだ。
でも食べてみたら味はふつうだった。
エアコンと氷水のほうが僕には重要だった。
駅のまわりの通りをのんびり歩いた。突然安いTシャツが売ってるのを見つけた。
どれも480円。掘り出し物だ。すぐに2枚買って記念にした。
時間と金をかけて大分県大分市まで来て収穫はこれだけ。
関門海峡物語
大分から戻ったのはもう夜遅くだった。4日目も同じく小倉、下関、門司に行く予定だったが、
ここでは略す。
夜の下関でケンタッキーを見つけたときは心の中で飛び上がった。
フライドチキンは僕のベストチョイスだ。価格も納得。
チキン3ピース、ポテト、コーラで882円。もちろん納得(1000円で食えるのだから)
それから清涼な風が吹き降ろす中、遠くに見える「海峡夢燈塔」へ前進。
登ってみると広い視野が俯瞰できる。でも夜の闇なので何の名物も見えなかった。
時間を見たらほどほどだったので、ホテルに戻った。
関門海峡は本州と九州が向かい合う海峡で、関門大橋でつながっている。
海底にはJR海底トンネル、海の上にはランチ、汽船などの交通手段。
はじめてこの名を見たとき、とても新鮮に感じた。どうして「関門」なんて名詞を使うんだ?
関は本州下関(旧称馬関)の関、門は九州門司の門だった。
これではっきりした。両港の間にどれくらいの美しく、ロマンチックな物語があっただろう?
だから関門海峡物語は、現地の旅行の強調された宣伝コピーになっている。
多くのきれいな場所を後で紹介する。
熊本
同じく電車代を節約するために、普通快速で行った。
特急は駅に停まるたびに車掌が検札に来る。だからくれぐれもただ乗りしないように。
八幡>博多>久留米>大牟田>熊本と、
普通、快速、電車を乗り継いで、
4時間と3150円をかけて熊本に着いた。
今度は利口に学んで、まず帰りの電車を見てから、熊本城に向かった。
僕が乗ったのは路面電車で、バスではない。バスはあまりにも平凡で、なにも言えないからだ。
路面電車の線路は一般道路にあるので、車と共用している。
香港に行ったことがあれば、このイメージがわかるだろう。
一般のバスより静かだ。切符のやりかたは同じ。
整理券とって運転手の上の価格表を下りるときに見て、券の番号と照合して金を払う。両替機もある。
時間の関係で、路面電車は熊本の繁華街を通っているけど、割愛するしかなかった。
時間が使えるのは熊本城だけ。これは僕のその日の唯一の計画だった。
熊本城
熊本人の最大の資産と誇りは疑いなくこの熊本城だ。
最初の城主は加藤清正、秀吉の家臣だ。
二十歳で賤ヶ岳の戦いに参加、賤ヶ岳七本槍の一人だ。
秀吉が信長の家臣柴田勝家を打ち負かすのに重大な貢献をした。
その後九州征伐で大功を立て、秀吉にこの城を賜った。
1600年関が原の戦いで家康が石田三成を打ち負かすと、
大工事をして熊本城を修復、54万石の肥後の大名になった。
大阪城の輝きを見たことがあるので、比較してみた。
熊本城は比べ物にならないが、雄大な建築ではある。
外壁城郭は引き続き修復されていて、九州第一の大城に属した。
明治天皇の大政奉還の後は、政府軍は日本「統一」の道を始めた。
征韓論が支持を受けず怒って下野して九州鹿児島に戻った西郷隆盛は、
鹿児島の下級武士と自分でつくった私立軍学校学生に擁立されて薩摩軍は政府軍と対抗した。
1877年西南戦争の熊本城戦役で西郷隆盛に感慨をもれさせた。このため、難攻不落の城となった。
実に高大で堅固で、最後に西郷隆盛は鹿児島に退いた。政府軍は着々と迫る。
すでに挽回できない局面。西郷隆盛も傷を受けている。別府晋介に介錯させて自害した。
別府は大泣きして「ごめんやったもんせ」と叫び、西郷隆盛の首を落とした。
西郷隆盛の命が終わると、西南戦争も終わった。
城の脇には加藤清正神社がある。熊本人がいかに清正を崇拝してるかがわかる。
城の周囲は、日本政府がまさに少しずづ修復、美化していて、将来は広大、古跡、歴史、人物、風景が結びついたいこいの場所になるだろう。
キセル
熊本城を見終わって、4時に熊本駅のケンタッキーで「昼飯」を食べた。
それから初乗りの200円の切符を買って、また乗り継ぎの旅を始めた。
僕はどの列車でも、帰りは必ず右側の風景を見る。
こうすれば両側の風景を見過ごすことは無い。
快適で平穏な車内で、運良く座れた。
時間がたっても眠くならない。
ずっと窓の外の景色を見た。
日本の田舎の多くはどれも「唐式建築」タイプの一戸建てだった。
多くの屋根にはソーラーパワーのパネルが乗っていて、日本人の心使いに感服した。
八幡についたらもう8時半過ぎだ。別の場所に行くのはやめた。
昨日からまだ持っている「大分>小倉」の特急乗車券で改札を出た(僕が前に書いたのまだ覚えてる?)。
北九州市の各列車はどれも小倉でほぼ交わるので、
僕は八幡で降りた。改札員は正確な時間がわかるわけない。
こういう方法は正しくない。でも僕は電車代をすでにこんなに払ってるんだ。
もしはじめから特急往復券を買うのを知ってたら、おそらくこんな今みたいな「泥棒」をすることはなかった。
このように心の中で考えてちょっと安心した。
だから熊本の往復は(清算を含め)たった470円ですんだ。
無料の夕食
旅館に戻った、旅館で食べようと思ったが、時間が遅いのでもうやってないという。
僕も自分で出て食べ物を探した。
近くの店を見たが、どこも焼き鳥みたいのばかり。
適当にある店に入り、MENUを見て注文しようとすると、
意外にもこの「松庵」の店主は老婦人だった。
外国人なんか滅多に来ないのだろう、だからMENUもない。
僕は下手な日本語でしばらく苦しんで、
やっとまずい焼き鳥とサラダ、一杯の氷水にありつくことができた。
それからだんだんいくつかの話題をしゃべるようになった。でもここにはほかの食べ物が無い。
食べ終わると、店主はすまなそうに、僕の要求に満足できなかったので、金は受け取らなかった。
もちろん僕はこのような招待を受けいれられない。でも堅持するので、彼女の好意を受け入れた。
お互いにお詫びの気持ちが充満してる中、彼女は出口で僕に別れの挨拶をした。
僕は本当にすまないと思った、この招待を受けたことだけでなく、売ってないものを食べたいと執着し他人に後ろめたさをつくりだしたこと、それを申し訳なく思った。
旅館近くをちょっとうろついた。小さな場所で涼しい夜風に吹かれて気分が良かった。
コンビニでカップラーメンとパンを買って戻り、夜食にした。
小倉
もとの予定では長崎に行くはずだったが、遠すぎるし交通費もびっくりしたので、小倉、門司、下関を1日ぶらつくことにした。
小倉の位置づけは福岡県北九州市小倉区だ。
位置づけが低いといっても、小倉駅の規模は台北市も及ばない。
前に述べた小倉は交通の中枢であるほか、駅全体の建築も人を驚かすに充分だ。
駅前には商店街が連なっている。
デッキ部分は四通八達、エレベーターが何台もあって通行に便利。
8つのゲートには小さな階段しかなく、そのわきに上下のエスカレーターがある。
彼らは金持ちなのか、あるいは民衆の行動に配慮した問題なのか?
2軒のデパートは2つのデッキで互いに通じていて、民衆のショッピングの便利さを増している。
区内には独自運営のモノレールもある。僕は一駅だけ買った。風景を見るためだ。終点まで行ってまた戻ってきた。競馬場が見えた。
実に感嘆する。これが二級自治体の規模とは想像しにくい。
繁華街の通りと交通の建設、台北市とは比較にならない。
僕たちはまだ何を言い争ってるのだ?
小倉城
いちばん賑やかな「魚町二番街」に沿って、小倉城に着ける。
両者は紫川で分けられている。紫川には歩道橋がいくつある。
外周に沿った歩道から、小倉城が見えて前に進む。
この小倉城に熊本城のような気風がないのは明らかだった。
でも城内には2つの面白い施設があった。
ひとつは、A、B、Cの3クラスに分かれた小倉城Q&Aで、僕もいちいち押して答えた。
どのクラスも100点満点で、僕の点数は、A50点、B60点、C20点。
ふたつめは、当時の生活と結びついた「飛脚」ゲーム。
観光客が地面を踏むやりかたのコンピュータゲームで、東京まで行くのだ。
僕も興が乗って駆けてみたが、あるいは駆け方が違うのか、負けた。でも勝った人もいた。
ここは面白い施設だった、駆けてる人を見てみんな心から笑える。
小倉城の城主は小笠原氏。明治天皇のときまでその子孫が城主になった。
加藤清正のように功績が高くて主人を震え上がらせ、その子孫まで44年間しか城主になれなかったのとは違う。
それから周辺の建築を参観。小倉城庭園には各種の日本習俗典故と教学が陳列してある。
庭園は小さいが、景色は人を喜ばせる。
松本清張記念館は小倉生まれの日本文学者の記念してできたもの。
僕はさっと見ただけで、記念スタンプを押して出た。
そのときちょっと大雨になった。僕は椅子に座って雨を見るだけだ。
雨が小降りになったので、門司港に向かった。
これで3回目の日本だが、雨になったのははじめてだ。
関門海峡の連絡船
門司港駅はとても欧風だった。前には地面から吹き出る噴水の池がある。
現代化建築と欧風建築が混ざったエリアだ。
駅を出て左に行くと遠くに関門大橋が見える。
今はまだ足を止めずにすぐに連絡船で関門海峡を渡り下関に行った。
僕は九州から本州に着いたのだ。
下関港の桟橋
岸辺はレジャー飲食が集まった場所で、だいたい3階建てで、木を主に使っている。
午後3、4時になって、僕もここで昼飯をとることにした。ラーメンが安そうだ。
飢えがちょっと収まると、水をがぶ飲みした。天気が暑いからだ。
節約のために、毎日600ccの瓶2本に水をつめて持ってるが、それでもジュースを買ってしまう。
しかし僕が選ぶのはどれもスポーツドリンクだ。暑さで脱水症状になるのがこわい。
ここでいちばん安いジュースは120円。
僕は5日間で700円以上(200台湾元)を節約したことになる。
食べ終わるとまたも大雨、暑さは消えたが、でも旅程には苦い。
傘が無いので待つしかない。
幸いにも30分ほどで雨がやんだ。旅を続けられる。
気の向くままに下関を見る
旧イギリス領事館
無料。でも言うことも無い。ベッドルーム、書斎、ペーチカを見た。
日清講和記念館
中日甲午戦争の交渉地。中国語が聞こえるがどうってことない。
英語の翻訳だとPeace
Treaty、心の中でむかついた。まるで中国が先に挑発したかのようだ。
日本側はねんごろに平和をじっと待っていたかのようだ。本当に憤慨した。
館内には当時の双方の全権代表の席があった。李鴻章、伊藤博文の題字がある。
赤間神社。
とても立派で堂々とした建築だ。横梁、柱、欄干はほとんど赤色になってる。
だから見るとまばゆいが、辺鄙な場所のせいか、参観者がいない。
ここは日清講和記念館の隣にある。
下関で夕食をたべる
下関桟橋に戻り、バスで下関駅に直行。
駅前にはまたも複雑なデッキがあってあちこちの通りに行ける。
当然、エスカレーターもあり、民衆の時間体力の節約に便宜を図っている。
駅の中の小さな商店街をぶらついた。夕食の時間だ。
僕はずっと刺身が食べたかった(京都、大阪に行ったときにも思っていた)。
ついに「味庵」という店で安い刺身料理を食べた。
一皿千円、4種類計12枚の刺身。
もう日本最後の夜なので、ちょっと楽しもうじゃないか。
2皿目は総合刺身さらに生ビールも頼んで計2300円。満足に食べた。
これが4日目にして最も豊かな食事で、いちばんおいしかった。楽しい!
門司港のきれいな夜
その後また本州からJRに乗って関門海峡トンネルを渡って門司で乗り換えて門司港に再度来た。
駅を出てみると、雨がやまない。
あわてた。最後の駅でどうしてこういう結末になるのだ?
幸いにも通り雨だった。
ゆっくり、目的なく前に進む。門司港の夜は風がかくも涼しい。
ところどころに光がきらめく。レストランの中は週末を楽しむ民衆がくつろいでいる。
僕は海峡PLAZAに着いて商店街をめぐった。そのままここで会社の同僚に食べさせるみやげ物を買った。
あまり長くは見なかった。ここも店を閉め始めていたからだ。
広場前の雨よけ棚の中で、一組の楽団が無料で歌を演奏して民衆を楽しませている。
民衆たちも拍手と叫び声を惜しまない。あたりは小雨だけども。
僕のような異国の観光客にも楽しいムードを感じさせてくれた。
広場のわき、遠くないところに一隻のレストラン船が停泊している。静かに海面に揺られている。
まばたく明かり、人の行き来する影、休みのパーティはいいものだ!
ゆっくりと歩道を回る。欧風商館が建設中。
新鮮な涼しい海風を吸い込む。こんな美しい場所に来た自分が本当にうれしい。
途中、一人で岸辺の陸橋を通った。奇特な外観。
船がこの運河を出入り(海峡マーケット、広場、周辺の建物を囲む範囲)するとき、
この橋は船の進行のために開く。いつもは人が歩く。
とても悪くない設計だ。
人が散り、8時半に楽団も演奏を終えた。僕の日本の旅程もピリオドを打ったようだ。
みんなに付いて駅に行った。
門司港駅の少女
駅に着いた。時刻表を見ると30分待ち。
また大雨だ。駅前の噴水はしきりに姿を変える。
右側に4人の少女がギターを弾き語りしていた。このとき9時近く。
でも人は通らないし、足を止めたギャラリーもない。
僕は噴水池に座って前のひっきりなしの水の舞を見た。雨を見ながら、少女の歌声に耳を傾けた。
それから左側からまた3人の少女が来た。ダブルネックギターを持って。
「黙って」「弾き」はじめた。
おそらくダブルネックギターはより充分に力があるのだろう、暗黙の了解でも比較的いい。
聞いていると、左側の少女の歌声とギターの音はあきらかに右側より優れていた。
僕は振り返って彼女たちの状況を見た。突然右側の少女が二人しか残ってないのに気づいた。
合点がいかない。また左側を見た。意外にも2人の少女がギャラリーにいる。
ということは右側から少女が出てったのか?
たちまち僕はおかしくなって笑ってしまった。心の中で彼女たちを「裏切り者」と罵った。
あるいは彼女たちは学習しに来てたのかもしれない。でなければ右側の2人はあまりにもばつが悪すぎる!
電車に乗る際、ふと思いついて歌をうたう3人の少女を写真に撮り、
この関門海峡の旅にピリオドを打った。
再見九州
毎回日本を離れるとき、総じて思う。まだ足りない。あと何日か見たい。
8月11日日曜日、荷物をまとめて、フロントのガールにさようならを言った。
4日間泊まった民宿を離れた。みんなに推薦できる価値がある民宿だ。
博多ゆきの快速電車に乗った。見知らぬ、あるいは良く知った風景を見て名残惜しい。
博多に着いた。すぐに地下鉄で福岡に行き、さらに空港接続バスに乗り換えた。
北九州自由旅行は終わりの声を告げた。
チェックインしたあと、免税所品街の通りを流して、商品と人の群れを見たりした。
静かに椅子に座って離陸する飛行機を見たりもした。
このときうまい具合にまた林田実習生を見かけた。
うれしくなって彼に挨拶した。一緒の記念写真を頼んだ。
今回入国時にイミグレで起きた事件を写真に残して記念とするために。
帰りの機内は、ビジネスクラスではなかったが、でも幸運にも混んでるさなか一人で2つの席に座れた。だからとても心地よかった。
ちょっと飛行機が揺れたのがすごかった。僕は怖かった。
でもほかの人を見るとどうってことない感じだ。僕は考えすぎなのだろうか?
でも要するに無事に台湾に帰ったのだ。この旅も終わった。
2002 京都、大阪の旅(0410~0414) [徒歩旅行 2000&2002 日本]
原文:
2002 京都、大阪之旅(0410~0414)
http://www.wayfarer.idv.tw/Japan2002/Kyoto_osaka2002.htm
旅行が好きな人は、たとえ後姿が孤独に見えたとしても、心の中は絶対に孤独ではない!
これは管理人の2回目の日本旅行で、はじめての海外一人旅でもあった。
やはり「テーマ単元スタイル」で書くが、時系列にしたがって書いた。
席のアップグレード
今回の旅で最初に感じたラッキーなこと。
意外にもビジネスクラスに座れた。
シートが広く、前後の幅も広く、不快なことは何もない。
機会があればエコノミーとの差を比べて欲しい(帰りにその機会があった)
やはりその感じはかなりいい。本当に!
快適、くつろぎが重要だ。運がいい!
高い空から見た日本
飛行機が日本上空にさしかかると、四国、九州のかたちが曖昧に見えた。
本州も末端の輪郭が見えた。
でも高いビルははっきり見えなかった。見えたのは緑の山にのたうちまわる黄土の小道だけ。
高空のせいだろうか?高いビルも小さな点でしかなかった。
まちぼうけ
飛行機が無事に止まると、ビジネスクラスなので他の人より先にチェックインできた。
同じ飛行機の客は僕の後の電車で来るのだ。
だから僕はみんなの「はるか先を行っている」のだ。
(これは2000年の東京自由旅行で、のんびりと先にトイレに行ったら、はるかに伸びた行列の後になってしまったので、チェックインをまず先にするという経験を得ていた)
でも、きれいな花はいつも開いていない、きれいな景色はいつもそこにはない。
僕が並んだ列のオジサンは実に詳細に調べられていた。ちゃんと書いてなかったのか?
意外にも次の電車で来た客よりも遅くイミグレを出ることになった。
まさに「急いだらダメ」だ。
これはまだましで、さらに運が悪いことに旅行会社は出口Eで車を待てと書いていた。
外なのか中なのかはっきり書いてない。(それで僕は当然外だと思った)
結果は「雨漏りの家で夜雨にあう」「災いは重なる」である。
約束の時間になって、現地旅行者の責任者に電話しようとした。
僕の日本語がどうかなんぞ関係ない!僕は最初に言った「中国語しゃべれる?」
あとで僕一人だけを乗せたミニバスが来た(僕のためのスペシャルだ、旅行会社も太っ腹だ)
うれしく思うべきなのだろうが、でも時間は貴重だ、時間を無駄にしたのを惜しんだ。
またも間違った電車に乗る
ホテルに荷物を置いて、計画どおり、
まず大阪まで行く。さらに環状線に乗って大阪市内の風景を見る。
計画だと後の数日は京都で遊ぶだけで、
大阪の賑わいを知れるのはきょうの午後、夜しかない。
(京阪の商店(デパート含む)のほとんどは8時に閉まる)
僕のホテルは地下鉄烏丸線の五条駅から徒歩10分。
五条駅から京都までたった一駅で200円。
東京の経験があったけど、でも僕も長いこと観察して、切符の買い方、乗り方を見出した。
京都に着いてJRを調べると五里霧中の感じ。
だいたいわかったのは、京都から大阪へ行き直接JR環状線に乗り換えられて、駅をいったん出る必要がないこと。
だから僕のはじいたそろばんでは、
大阪に着いたらJR環状線に乗り換え、一周した後、また大阪に戻ってほっつきまわる。
交通費をちょっと浮かすことができる。
残念なことに、 「神様はまるっとお見通しだ」
大阪JR環状線は全部で6本。でも全部の線が一周してるわけではない。
二線は別の路線に行ってしまう。
僕が準備を怠ったために、天罰を受けた。それでものんきに眠ってた。
(飛行機が朝早くて僕は4時半に起きていたので、疲れてた。)
目が覚めるともう奈良に着いていた。僕がぽかんとしてるうちに、さらに一駅進んで平城山に着いた。
でも東京で経験があったので、僕はいぶかしみながらも、間違ったことに気づき、すぐに路線図を見た。
急いで降りて乗り換えた。これが一日目でよかった。飛行機に乗り遅れはしない。
この経験をしたので、僕はそれから列車を間違って乗らないようになった。路線の説明、標示も完全にはっきりわかった。
大阪に戻り、切符を自動改札に入れると、画面に「時間異常」と出た。
僕は15:50に京都を出て、普通列車で16:35に着くはずだった。でも僕が着いたのは19:30。
駅員に尋問されて、僕もまじめに説明した。
でも彼はほとんど聞き取れないようだった(かまわん、どうせ彼の言ってることを僕もわからない、公平だ、ハハ)
それから彼はついに負けを認めた。僕に行っていいと告げた。さらに「どうぞ」とも言った。僕ってすごい?^_^
外国人なら許されやすいようだ、すみませんでしたあ~~
泊まったホテルKYOTO RICH
このホテルは三ツ星ホテルをうたってるが、ホテルは見たところなんのレジャー施設もない。
場所も小さかったが、日本のホテルでは通常の規格のようだ。
一般の商店が両隣にある。見た目が悪い。まるでマンションのようだ。おそらく交通はまだいいのだろうけど。
(どうせホテルになんの施設があろうと、僕もCAREしない。外に出歩く時間で充分ではないのか)
ただひどかったのは、部屋の小さな冷蔵庫が一定時間おきに保冷のために騒音を出すことだった。
部屋の外の車の音、クラクション、消防車救急車の音、が耳に入ってくる。
これは毎日歩き倒して崩壊した僕の精神と体力の一大障害になった。
朝早くにはうるさい虫の声も聞こえるし、カラスまで鳴きやがる!
僕は日本でカラスがはびこってるのを知った。大阪城公園でもっと多くを見た。
同様に不吉のシンボルにされてもいて、台湾人ならカラスをすぐに追い払うだろう。
日本人はしかし不幸を招くのが怖いのだろう、カラスをかまいたくないようだ。
カラスの鳴き声は本当にうざい!僕はカラス4羽の声で朝目を覚まされた。憎らしい!
朝食
三ツ星と四つ星にはまだ差がある。WAITERが座るときに椅子を引いてくれなくなる?
はじめ、天気資料をSURVEYしたとき、京都の最高最低気温は19-9度だった。
だから食事のときにサラリーマンの服装に注意した。
台湾の天気と着るものがほぼ差がないのを発見して、僕は安心した。
それから数日、僕は台湾と同じように着た。ちょっと寒いかなと思ったこともあったが、我慢できた。
天龍寺
鉄道のたびは僕にとって極めて大きな吸引力がある。
だから嵯峨野嵐山観光鉄道列車が僕の最初の目的地になった。
僕はネットの情報を参考にして、嵯峨野から嵐山まで歩くことにした。
佐賀の駅を出ると、アーチ型の案内道標が高いところにあるのが見えた。
僕はその下を通り、道すがら鑑賞しながら、天龍寺に着いた。
ここは京都五山のトップと呼ばれている。寺に入ると静かな感じ。
大きくはないので、僕も寺の外をのんびり歩いただけだ。だって京都の寺は金をとる。
でもホント言うと、僕の崇める人文歴史、風土人情、地理風景の要求に対し、
このように寺の中を散歩するのは、心情がとても快適で、気軽で、感覚はとても愉快だった。
嵯峨野から嵐山までの歩きすがらの紹介
有名な嵐山渡月橋へ向かって歩く。
美空ひばり館を通る。当然、僕の年代なら彼女の名前を耳にしたことがある。
でも彼女に対してなんの印象もなかったので、通り過ぎた。
嵐山渡月橋は保津川くだりの終点だが、風景もたいしたことはないようだ。
でももしこの沿線全部を見たら、それならとてもよい気晴らしのルートになるのだろう。
僕はこの橋を行き来して、やみつきになった。
それから静かな川沿いの小道へ移る。小さな山を登る。
日本人の立てた碑があった。いわく『周恩來總理題詩碑』。
さらに前へ行くと高く天にそびえる竹林の小道。これが嵐山のみどころ。
その下に立って天を仰いでも太陽は見えない。通ってると心が晴れ晴れする。
竹林の先は嵯峨嵐山観光列車の嵐山駅だ。
嵯峨野嵐山鉄道の景観
ROMANTIC TRAINなる観光列車に乗る。
僕は心の中で平渓鉄道と比べた。
(阿里山鉄道と比べるべきかもしれない、でも僕は阿里山鉄道に対してもう印象がない)
この路線は純粋な観光用で、JRとは別だった。
美人が写真を撮るのを手伝って金を取っている。
でも強迫はしてない。うまく撮れていて、払いたければ払えばいい。
彼女の金儲けのやり方に僕は感服した。写真を受け取る者はとても多い。
沿線の風景は別に言うことがない。山、谷、トンネル、鬱蒼とした林。
一度見ればどうってことない。
最後に着飾った「酒呑童子」が列車に乗りこんでひとくさりしゃべった(僕は聞き取れない)。
こうして終点亀岡に着き、この鉄道観光の旅も終わった。
観光列車を降りると、僕はネット情報にしたがってJR馬堀まで歩いた。
この鉄道の近くは山と田園が組み合わさって、視界がよくきく。
僕は自由旅行はとてもすばらしいと突然感じた。
天と地の間に僕一人しか存在してないかのように、山野の景色に解け込んだのだ!
金閣寺
JRに乗って円町で降りた。205系統バスに乗り換えて金閣寺へ。
京都市バスは短くても長くても220円均一。区間ごとではない。
(約60台湾元、高いでしょ?)
金閣寺、又の名を北山鹿苑寺という。
大将軍足利義満が安住の地を求めて1394年に建造。
寺のすべてがキンキラキン。池の水に映えて、両方輝いてる。
入場券は「お守り」タイプで回収されない。
家に持って帰って玄関に「家内安全」を張ることができる。
もちろん日を改めてまたこのお守りを持って金閣寺を再度見ることもできる。
でもばちあたりなので、やらないほうがいいだろうと思う。それはおろかな考えだ、耳に入れとけばいい。
寺はすっきり静寂で、道は単純。順路にしたがって出口に出られる。
でも簡単に出てしまうので、騙された感じがする。見た時間があまりに短い。
そのとき僕が見かけた2人の台湾人おばさんはそう感じたらしい。
でも僕はその時まだ入場券の使いまわしができることを納得してなかった。
(同じ日なら神もとがめない?)
出口にはショップ。僕は抹茶菓子を試食。とてもおいしい。同僚に頼まれていたので2箱買う。
それから長いこと揺られてバスで京都駅に戻り、街をうろついて夕食をとった。
京都駅めぐり
京都駅は非常に現代化した建築で、伊勢丹デパートがある。
その下の地下街はとても広く、正面の京都TOWERとつながっている。
ここは大阪駅と同じように商店街が多く、売ってるものも多様だ。
待ち時間にぶらぶらできるところだ。
伊勢丹11階のMORITAでしゃぶしゃぶを食べた。今回の自由旅行で最高値の一食、3980円。
高いので遠くを望める。窓の外を見れば悪くない街の風景。
食べたところはどうも高級らしく、食事を持ってきては僕に紹介する。
牛肉のスライスを一気に鍋の中に放り込むと、和服を着たウエイターが制止する。
ちょっとした食べ方を教え、気分を害した僕のこの食事は終わった。
でもウェイターをはべらせての「賓客」のうまみを充分に楽しんだ。
食べ終わって一階ごと降りてぶらつく。
4階まで降りたら着かれた。エスカレータ脇には休憩ソファがある。座る。
ちょっとすると、広末涼子似の女性が僕の向かいに座った。
運がいい!だってどうみても広末涼子だ。
そのうえ日本女性がしてるように顔中に化粧を塗りたくってない。さっぱりして見た感じがいい。
ということで、僕は京阪の女性は東京に比べて美人が多いと思った。
地下街をぶらついて、KYOTO TOWERの展望台にのぼった。
100mの高さは東京タワーの343mとは比べ物にならないが、
でも高い場所から望む視覚の感じは問題ない。
記念キーホルダーを買って刻印し、
下の階で引き続き京都の各種祭りの紹介を見た。
展示トンネルに入ると、突然マネキンがすこし動いた。お化け屋敷ゲームだと思った。
ちょっとむかついた、なんでびびらなあかんねん。
入り口で待ってると、2人の女性が何事もなく入って行った。僕もついて行った。
元来あれがちょっと動いただけで、リアルに人の動きを再現したものだった。
歩き終わると、商店街はぜんぶ閉まってた。ホテルに戻った。
大阪城公園
同僚に日本橋でカメラを買ってきてくれと頼まれたので、計画を変えて、1日を大阪に使うことにした。
こんどはJR環状線についてよくわかったので、
安心して京都から大阪、大阪市内の沿線風景を鑑賞した。
順調に大阪城公園で降りた。
大阪城公園はでかい。風景がいい。外周沿いの歩道で天守閣へ。
日本政府の熱心な保護の下、天守閣の概観はきらびやかで、気風があった。
巨石で深い堀を高く築いている、大阪城公園ぜんたいが当時の徳川幕府の都城の範囲だった。
僕は石段を選んで天守閣に進んだ。難攻不落を感じた。
諸所に軍事効果のある雄大な建築があり、感慨無量だった。
もし本能寺の変で織田信長の時代が終わり、豊臣秀吉の時代が始まったとするなら、
それなら1615年の日本史でいう「最後の陣」は、豊臣時代の滅亡、徳川時代の興起(1600年の関が原の戦いで大事はすで決したとはいえ)を代表している。
この年徳川家康は15万5千の大軍で豊臣秀頼の5万5千の天守閣守備軍に対した。
城を攻めてるときに旧天守閣は炎上、豊臣秀頼(秀吉の子)一族は城とともに滅んだ。
今の天守閣は徳川幕府が戦後再建したもので、さらに堅固で大きく高く、今も後世の人に弔いを受けている。
天守閣ではことこまかにこの歴史を紹介している。
でも僕は史実を詳しく知らないので、ちょっとぼんやりした。
よじ登るようにして階段をあがってきたからでもある。
ついに、壁のテレビで天守閣の歴史の芝居を軽やかに紹介してる7階に着いた。
体は疲労していて、支えきれずにソファに崩れ落ち、30分眠った。
目覚めるとさらに最上階の8階にのぼり、大阪城公園付近の全景を俯瞰した。
階を降り、天守閣を出て、たこ焼き を買って昼飯にする。10個で400円。
味は悪くない。台湾よりうまい。でも東京の味のうまさはない。
その後大阪城公園をのんびり歩いた。風景もまた悪くない。
桜花園にはまだ枯れていない何株かの桜が孤独に見えた。
花が盛んなときはどれほど盛り上がるか想像できた。
その下に座る日本人もどれほど長閑なことだろう。
天王寺公園
標示にしたがって、静かな小道を抜けて、大阪城公園を出た。
森之宮でJRに乗り換え、天王寺公園JR駅にやってきた。
ここはもちろん賑やかな場所だよね?僕は推測した。
だって鉄道がみんなここで交わっていて、乗換えが便利だから。
僕は着くや「天王寺」を探した。
でも天王寺公園の外周を一回りした(これまた非常に疲れる歩き方だ)。
木の下で休んでいると「幸運」にも鳩の糞の襲撃に遭った。なんて悲惨なんだ。
果てまで(天王寺動物園前)歩いたが、天王寺なんてもんは見えん。
引き続いて「新世界」「通天閣」の通りに進む。
ここもガイドブックで紹介されてる場所だ。でもどうってことないように見えた。
だから通天閣も僕は金を払って中に入って四周の景観を眺めるようなことはしなかった。
別の場所も歩こうかと思っていいたが、やめた。でも心は満足してない。
「四天王寺」はどうだろう?
標示にしたがって、長いこと歩いた。やはり間違ってない。これが四天王寺だ。
この日本で最初に仏法を学んだ4人を記念してたてっれた寺の境内には付属高校があり、鳩もまた多く、僕はちょっとだけぶらぶらして、石段に座って休んだら、突然ある光景に出会った。なぜか鳩ぜんぶがいっせいに飛び上がったのだ。
鳩の中にも「親分」がいるのか?
四天王の参拝には入場券がいる。だから入らずに、外周をぶらぶらして出てきた。
道頓堀
ここは大阪の有名な美食商店街だ。
僕がここに来るのを選んだのは関西料理をちょっと食べたかったから。
同情することに、ここの美食街は大きくて、通りに連なって、非凡な賑わいがあるとはいえ、
でも僕が興味を持った食べ物の値段はどれも2、3千円以上した。
非人間的なマクドではフライドチキンを売ってない。ハンバーガー、ポテトだけで、僕は食べたくない。
ケンタッキーもテキサスチキンもない。不思議なことに刺身もほとんど売ってないようだ。
1時間ばかり歩いて、飢えながら街をさまよった。この美食商店街には徹底して失望した。
最後に1480円払って小さなとんかつを食べた。でも水はできるだけ飲んだ。
だって本当にのどが渇いていたのだ。ミネラルウォーター1本160円が浮いた。
総じて京都、大阪は食事がとてもつらかった。容赦なく金が出て行った。
日本橋
食べ終わった後、日本橋にすぐに飛んでった。だってもう7時過ぎだ。どんな時間も無駄にできない。
地下鉄の駅を見つけたが、実は道頓堀と日本橋は歩いていけるのである。
しかし道を探して歩く時間は取れない。だってもうここに戻って来る時間は後にないのだ。
日本橋の有名な電気街を探すのに、ちょっと時間がかかった。
最後に区域地図でやっと電気街の位置がわかった。
あわてて足を早めて突進した。でももう8時近い。店の明かりがどんどん消えていく。
ある店は閉店準備をしていたが、かまわずに突進して買いに行った。
幸いにも同僚が指定したカメラはあり、僕もまた39800円から34000円に値切った。
さらにパスポートを見せて5%の免税を受けた。同僚のカメラを買うのにいかに献身的に力を尽くしたかおわかりだろう。
買い終わったのは20:14分。どうやら危機一髪だったようだ。もし買えなかったら「負担」が大きくなったはずだ。
だから地下鉄の駅に戻るときの心情は非常に軽かった。明日は心置きなく遊ぶことができる。
誰かに物を買うのを頼むのが遊び心に及ぼした影響からするに、これからはできるだけ避けたいものだ。
京阪の寺、観光ポイントはほとんどが5時に閉まる。日中はこれらの所在を見て回る。
夜は街を歩くように計画するのがいい。でも日本は台湾のように10時までできない。時間はあわただしくなった。
そのうえ事情は順調とはとてもいえなかった。値段も同僚の定めた値段ではなかった。
電話をして問いただし、そのうえちょっと事情があり、2千円近い金を使った。あまりに痛かった。
(日本の国際電話は千円で3分しか話せない)
金を出し、力を出し、時間を使って誰かに物を頼むときは、自分ならどうするか考えてみよう!
銀閣寺
旅程を買えたので、自転車の旅も取り消すほかない。
でも内容の2日分を1日でやってしまう十尾をした。だから04/13朝、バスに乗って銀閣寺に駆けつけた。
銀閣寺道で下車。歩道沿いは後で見る哲学の道と似ていた。
銀閣寺は又の名を東山慈照寺。その入場券はお守り方式で売られている。
いちばん人の注目があるのは、寺に入った後に見える巨大な四角の「向月台」ときわめて整然と梳かれている銀沙灘である。この平凡で奇のない細かい砂はだが人に深刻な印象を与える。
銀閣寺は金閣寺のような感じで銀箔はない。古木の原色である。
だから見た目はちょっとぼろっちいが、金閣寺を経験してなければだが。寺の頂には鳳凰の飾りがある。
無論どれが銀閣寺の建物なのか僕はどうやってもわからなかった。
そのまま短い小さな山道を行く。林が天にそびえる森林景色な感じ。
清涼な空気も人の精神を奮い立たせる。
日本人はよくも寺と山林を結合したものだと感服する。でも進入できない。
そのぼろっちい状況を目の当たりにして、さらに日本政府がすばやく維持保護することを望む。間に合わなかったら残念だ。
哲学の道
銀閣寺橋のカーブを曲がると、哲学の道と刻まれた巨石が立ってる前に出る。
この道は石板のふたつの道がまっすぐ若王子寺まで伸びている。計1.8キロ。
別の側は阿福が言うところの「大水溝」
でもこの長々とした大水溝には魚が泳いでるのが見える。
水面は清らか、水底は泥と落ち葉で、人口修飾はない。
敬うべきことに、ごみが見られない。だからこの魚も逍遥とのんびり泳げるのだ。
開放式河道にこのような「奇蹟」があるなんて台湾では不可能だ。
魚はつまえられ、ごみの山になるだろう。
哲学の道の上にはまばらな木がある。でも道沿いでは途切れていない。
だから太陽の光にさらされて苦しむことはない。
多くののんびりした日本人観光客がここで写生をしていた。
せわしない生活の中で得られるささやかな暇だ。
永観堂と南禅寺
哲学の道を出て、バスには乗ってはならぬ、わずかに歩けばまた引き続き寺めぐりができる。
でもほかの場所に行きたいのなら、いくらかは割愛するほかない。
永観堂は聞けば紅葉で有名らしい。しかし今はその時期ではない。
だから中の景色がいいのを知っていても、入らなかった(だって入場券がいるのだから)。
南禅寺が開放している場所は広い。
京都三大「三門」と呼ばれる楼閣は入場券がいるが、
そのほかは気ままに散歩できる。
土の道、石の道、砂利道、寺と林の交錯した景観。
このちょうどいい温度、陽光の下で、かすかに風が吹いている。
こういう場所でちょっと眠ってみたかった。
でもさらに多い記憶のために、次の場所に進まないといけない。
道を尋ねる
近くのほかのスポットは行くのをやめることにし、標示にしたがって、地下鉄東西線の蹴上駅に着いた。
次の目的地は清水寺。僕は歩いて行きたかった、でも遠すぎたらどうしよう。
そこで地下鉄に乗る前に、駅を出てまずLOCAL地図を探したら、やはり清水寺が見つかった。
隣にいるおじさんに、僕はふと思いついて清水寺の位置を訊いた。
この通りを上るのですか、下るのですか?
うーん。やはり訊かないほうがよかった、彼は多くを話してくれたが、僕は聞き取れなかった。
あきらめずに地下鉄に乗って行き、東山で降り、駅を出て清水寺へ行くバス停を探した。
ある外国人が地図を指差しながら英語で僕にどのバスが清水寺に行くのか訊いてきた(因果応報か?)
I also want
to the same place.
(わお、やっちまった。go
toが抜けてる。なに緊張してるんだ僕は)
本当に日本人にはすまないことをした、僕は日本人の英語にさらに減点を加えてしまった。
Su Mi Ma
Sen!
清水寺
清水寺は西暦798年建立、平安時代の代表建築。
清水寺の中の清水は有名で、奥院の石段の下には音羽の滝がある。
清水は3つに分かれていて、長寿、健康、知恵を代表している。
僕は観光客が喜んで木の杓で水を飲んでるのを見た。
寺には別に地主神社がある。多くは縁結びと恋愛と厄除けだ。
日本人の習慣で紙のしおりを折り曲げたのが、木にかけられた縄にある。(*おみくじ)
願望を木製の板に書いてあるのも、同じように掛かっている。(*絵馬)
僕はこれはとても面白い習俗だと思った。そのうえ若い人によるものがかなりある。
清水寺はまた広く、林の中の森林歩道風景区もまたある。
僕は再度思った。京都の寺は神を敬うだけではなく、
心身健康の増進ができる付属の山林散歩活動とさらに結合しているのだ。
そこにいる間、静かで厳かで、空気は清浄で、俗世から遠く離れている。
神の精気に爽やかにさせられる。
出口をやっと見つけた。出口から入れば入場券は買わないでいいという話だ。
もっと早く知っていれば!
でも罰当たりは避けたい。300円はやはり払おう。少なくとも中は見る価値がある!
いろんな坂の道
清水寺の出口で何点か食事を注文、2250円を払った。
読めない日本の文字なので、食い損なった。団子の串の写真には魚、肉の団子だったが、思いもよらず、甘い澱粉の団子だった。ホントに泣くに泣けない。
まずかったが、接客は親切だった昼飯が終わった。
有名な清水坂、三年坂、二年坂とこの3本の石段の小道を歩いた。
両脇の店と一緒に景観になっている。
九份の豎崎街と基山街に似た感じだ。
ただ違うのは日本風か台湾風かの差異だけだ。
道に沿って下ると高台寺にやってきた。門前の石畳の歩道は一般人に「ねねの道」と呼ばれている。
(ねねは秀吉の正妻の名前。一般人には北政所と呼ばれている。秀吉の死後ここに隠居した)
格別な風味のある石の歩道だ。僕は特別に上下往来して満足した。
それから自然と八坂神社に出た。
この神社は京都の有名な祇園祭の主祭神社で、インドから来てもらった牛頭大王を祭っている。
八坂神社の正面の通りが祇園街。
芸者がいちばよく出現する「花見小道」と交差している。
僕は思いがけず意外にもたった1日で、名所をざっと見たわけだ。
京都でいちばん賑やかな河原町通りを含めて。
そこと僕のホテルは意外にもたった地下鉄で一駅の距離だった!
河原町通り
西暦1600年関が原の戦いで、西軍首脳石田三成は東軍徳川家康に敗れた後、
河原町で斬首の刑になり、彼の豊臣秀吉に対して尽くした忠義が終わった。
河原町通りは京都でいちばん賑やかな通りだ。
四条通、新京極、寺町通、錦市場などとつながって広大な多く商品化された通りだ。
祇園通りから河原町通りまで歩き、マクドでポテトMサイズ、コーラMサイズを頼むと514円。
もうすでに何度も日本人に混じって物を食べているが、この感覚はとても面白い。
腹が膨れると精神体力がかなり回復した。気軽に愉快に通りをぶらついた。
この通りは本当にきれいで整然としていた。
Tシャツのような帰って着れて記念にもなるようなものをちょっと買いたかった。
でも4、5千円というのはほんとに高すぎる。やめるしかなかった。
でも徒歩で縦覧したり、足を止めたりするのが、僕にとってはまことに良い街歩き活動だった。
これも僕の良い友人がささやかな忍耐に苦しんだのだ(つまり僕の両足と両目が、よく耐えて歩き、我慢して見たということ)。
あの堅い志を変えない心とともに、僕はこの難しい旅程をこのように完成させたのだ。
とくに今日はホントに歩き詰めだった!
本能寺
ここの所在を発見したときのことは、一句で形容できる。
「計画してもうまくいかないが、不意の行動なら意外な成果を得られる」
出国前にちょっと調べてみて、京都にいた時も本能寺の関連情報があるかどうか注意した。
だって僕はこのころの歴史にすこぶる興味がある。でもこの4日間では何も得られなかった。
不思議なのは、寺町通を気の向くままに歩いて最後まで行ったら(四条通の交差点)、
小さな隅に「大本山本能寺」の木の札が無意識にちらっと見えたのだ。
こんな正確なことなんてありえないと思った。こんなうまいことがありえるのか?
しかし札の上には本能寺の説明が紹介してある。
寺の門にも本能寺と書いてある。その左の石碑にも「大本山本能寺」とある。
碑のわきには「贈正一位織田信長公御廟所」というのも立っている。ならまた疑う必要があるのか?
京都から地下鉄烏丸線に乗って「四条」に行き、さらに寺町通に行けばとても簡単に見つかる。
再見
着実な京阪自由旅行が終わった。
5日間の時間があったが、遊べたのは2、3、4日目だ。
風景を撮るだけだったが、でもじかに見れば情が生まれ、写真を見ても当時の自分の影をそこに思い出すことができる。
僕の足跡は当時すでに歩いていた。つまり観光ポイントを歩いた。
先週の今日はまだ京都にいた。旅行記を書くのに4日かかった。とてもつらかった。
でも僕はこれも価値があると思う。とてもよい記憶をとどめるほかに、
ネットフレンドたちがもし興味があって京都、大阪に遊びにいくとき、僕の旅行記は有用になるかもしれない。
旅程は各項目の記述に秘められている。観光ポイントの見所と価格も多く書いておいた。
台湾に帰った。満足のまま。5日目はもう帰るだけ。
京都から関西空港までJR特急指定席で3490円。
これが日本で最後に乗った乗り物だ。
空港のショッピングモールをひやかし、そこではまた海が見えた。
空港の商店街を歩き、ついにチェックインして搭乗口に進んだ。
再見京都、再見大阪、再見日本。Sa
Yo Na Ra~~
2000 日本東京の旅(1221~1225) [徒歩旅行 2000&2002 日本]
原文:
2000 日本東京之旅(1221~1225)
http://www.wayfarer.idv.tw/Japan2000/Tokyo2000.htm
これは管理人最初の日本旅行である。日本についてほとんど知らなかったので、多くの新鮮さがあった。旅行記にはテーマ単元スタイルを採用した。出会った人や物について発表する。
日本の天皇
12月23日は平成天皇の誕生日。
皇居は開放され、祝賀活動がある。
僕と孟勳は特に警護が厳重に包囲してるところをと特に選んで、皇居に進んだ。
たくさんの人が日本国旗を持って喚声をあげている。日本人のふりをした。
日本の女警察官はどれも甘美で、親切で、声音も良い。とても素晴らしいね。
「大日本愛国同盟」と書かれたのぼりを持った人と一緒に記念撮影を撮った。
皇居の中はどうってことなく、一般の公園と変わらない。日本風が多いだけだ。
英語と日本語
流暢な英語だと東京の街角でも通じない。
この点は僕が帰りの飛行機の中で会ったバンクーバー帰りの留学生が実証してくれた。
彼女はむかついていた。日本人はなんで私が日本語が聞き取れないのがわかっても、日本語で話し続けるのか。
僕は彼女に言った。そのシチュエーションを台湾に当てはめてみよう。(*台湾の)店員が英語でどうやって会話できると思う?
人はみんな、ええかっこしいなんだから、なおさらだ。
君はとても英語がうまいけど、他の人は間違って言うのが怖い。だからその言い分は肯けない。
僕のように英語がヘタ、日本語がヘタでも何とか通じる。
タクシーの運転手と30分と雑談したり、ものを食べたり、買い物したり、道を聞いたり、写真を頼んだりと、
やってみれば、東京の人は親切で友好的と感じた。だから感触はとてもよかった。
上野公園
東京の交通は便利だ。多くの電車でここに来れる。
山手線(繁華街を一周する環状路線)を例にすると、
駅に着いて指示標示にしたがっていけば、簡単に着ける。
西郷隆盛は有名なランドマークだ。花見もここから始められる。
上野公園の占める土地はとても広大で、充分に散歩できる。
動物園もある。僕達はパンダを見に行った(やはりかわいい。でも写真映りは悪く、汚かった)、
そのうえ次々と死んだ結果残ってるのは一匹。台湾のコアラ、王様ペンギンに対する手厚さとは似つかない。
日本のペンギンは近くで撮れた。しかも室外にいて、一般の野獣と同じ待遇だ。
行列
ホント言うと僕は日本の行列文化に敬服している。
おそらく東京の人口が多すぎるためだ。だから並ばざるを得ないのだ。
でも日本人が並んでるとき、僕はある行列の変革を発見した。
どの遊戯施設にも入り口に立て札がある。ここはどのくらいの時間待たないといけないのか書いてある。
30、50分は正常だ。2時間50分のも見たことがある。
ものを食べるのも行列だ。僕達が外から店の中に入ると、
さらに中でも上の階まで列が伸びていた。
曲がりくねって、左に右に、上に下に、並ぶったら並ぶ。
さらに写真だってそうだ。みんなが同じ景色を撮りたいときも、並ぶる。
そこで東京人は相互扶助の精神を発揮する。
次の組が前の組の写真を手伝って撮ってあげるのだ。これから類推すると、列が長くなっても、彼らは耐性があるのだろう。
これは僕がとても面白いと感じた点だった。
東京の物価
東京の物価は人を驚かせると前から聞き及んでいたが、1日目から見て分かった。
ホテルに着いてそのまま銀座の街頭で食事を探していると、どの食事を見てもすぐに目まいがした。
最後はケンタッキーでチキン2ピースのファストフードを選んだ。税込みで575円。台湾元で約175元。
台湾だとたった108元だ。そのうえコーラももっと多く出来る。カップラーメンは税込みで260円。
それから対面したどんなものも高すぎて死にそうだった。麻痺した、でなければどうすればいい?
ディズニーランドのチケット5500円は間違ってないが、2、3千円する食事も食べた。
今思う。台湾は本当に物価が安いようだ。
台場
ここは僕が特別推薦する必ず行って欲しい盛り場だ。
台場はいわゆる副都心だが、その賑わいのレベルと規模には本当に驚嘆させられた。
ここにはいくつもの商業ビルが連なり、どのビルも高くて大きく、深くて広い。
これらの建物の下にいると、自分が砂のように小さいと感じる。
東京本土から「レインボーブリッジ」を通って東京湾の一大エリアに着く。
きれいな歩道は確実に好きになる。
森林公園のような歩道、、風雨避けのシェードがある歩道橋を通れるし、
電車にも乗れる。遊覧船に乗って台場のほかの場所を引き続き観光も出来る。
海浜公園の歩道を歩き尽くせば、人を離れがたくさせる。
海鳥は人を恐れず、直接手のひらの餌をついばむ。
夕日に照らされたレインボーブリッジは、海の上にできた一枚のどうしようもなくきれいな絵だ。
TVBSがかつて報道していたが、フランスが「自由の女神」を日本のここ台場に贈ったらしい。
台場は内部が広大で、静けさも賑わいも含んでいて、まさに超XXXXな場所だ。
多くのビルの中にVenusFortがある。内部はヨーロッパ建築の模倣だ。
その上、青空に白雲のニセモノの天井だ。でも本物っぽい。
もう外は夜になってたけど(5時だともう暗い)、
でもその中に身をおいてると、詩のようで幻のようで、人を酔わせる。
My
God ここはどのようなコンセプトで、こんな美しい商店街を作り出したのだ?
ショッピング、飲食、散歩、ゲームをしたいのなら、ここでぜんぶ満足できる。欲望をとどまらなくさせる。
どのビルもそれぞれ特色があって、見て回る価値がある。残念ながら僕達はできなかったけれど。
東京に来るのならここを見逃してはいけない。しっかり覚えとこう!覚えとこう!
ここは1日かけても遊びきれない場所だ。絶対必見だ。
東京ディズニー
ディズニーランドも必ず紹介すべき場所のようだ。
でも僕は娯楽施設に対してなんの興味もないし、その上「恐怖」の行列がある。
1日かけても見終われない。
僕達は平日を狙って行ったのだが、それでも人山海山で、ホットな娯楽施設だった。
遊ぶには30、50分は我慢して待たないといけない。
日本人の行列が自在なのを見ると、心の中で敬服するしかない。
東京ディズニーランドはとても広い。城スタイルの建物もあり、記念写真にいい。
城前の広場は1時間ごとにショーがある。もちろん並ばないですむ。
パレードになると、みんな沿道にシートを敷いて、早くから場所とりをする。
クリスマスだからかもしれないが、パレードの人数は僕が見たところ百人以上の多さだった。
装飾は華美で、ショーはコミカルで、そのうえクリスマスの曲が流れる。
まさに心情がHIGHの極致になる。全体のムードもあたりに充満して小躍りしたくなる。
その間、白い紙で作った蝶がばらまかれて宙を舞う。まさに壮観で美麗だ。
雪の花が風に舞い、クリスマスに彩を添えた。
ここに足を止めて、熱気のムードを感じるのも、悪くない!
各地雑記
浅草寺
東京最古の寺。620年建造。寺の入り口は「雷門」と言う。両側にはきれいに一般商店が並び、物を売っている。これも浅草寺の特色だ。
池袋
聞けば一番有名なのは駅の中のふくろう像だという。日本の女子高生が大好きらしい。
しかし何人かに尋ねてみて、直接女子高生に質問して、やっと場所がわかった。
本来なら一緒に写真を撮りたかったが、言葉が通じないので誤解されるかもしれない。
僕達の写真を撮って欲しいだけだが、一緒には撮れなかった。挫折だ!
ガイドブックに紹介されている東武地下広場もぶらついた。孟勳はここで同僚に出合った。
お互いに旧知の仲だった。
新宿
日本人の新都庁を見に行った。日本人の行政ビルがこんな豪華で壮観だとは想像出来なかった。
45階には展望台もある。東京の景観が余すところなく一覧できる。
僕達はここと東京タワーで記念キーホルダーに刻印した。
ここでもすぐに刻印できた。名字を書けば、記念価値は非凡だ。
原宿
明治神宮は森林歩道公園のようだった。高くそびえる林と静かな道路が特色だ。
でも行ったのが遅すぎたので、5時だと重要なところは参観できなかった。ちょっと見ただけ。
竹下通りは有名なストリートだ。僕達も行って活気を見た。
渋谷
いちばん有名なのはコギャルの産地109ビル。中は混雑していた。
僕達は一本、また一本と通りを歩いて、渋谷の賑わいを見た。
恵比寿
駅からGARDEN
PLACEまでシェードの歩道橋がある。暖房と動く歩道が備わっている。
日本政府の人民に対する配慮には感嘆させられる。
僕達はここで日本人と一緒に聖夜を過ごした。一組一組のカップルが静かに過ごしている。
そのとき、いまだかつて聞いたことがないMerry Christmasの祝い声が起こった。いぶかしいことだ。
台湾でもクリスマスには見知らぬ人にも祝福してあげるべきだ!
このような暖かいムードの中で僕達も長いこと留まっていた。
東京人はこんなに多くのレジャーに行く場所があって、幸せだろうと思った。
以上いくつかの場所を紹介したが、僕達は人ごみに深く入って、少しも見逃さずに歩き回った。
実に実に自由旅行の快楽を楽しんだ。団体だったらこんなに自在にはできない。
電車に乗るのは面倒だけども!僕達はそれでも多くの路線に乗った。
船、バス、タクシーなども乗った。
当然、現地人と多く接触することは、自由旅行最大の目玉だ。
団体だとこんなチャンスはほとんどない。だから僕は自由旅行を愛している!
秋葉原
有名な電気街。どのビルのどの階もぜんぶ電気製品。
東京で電気製品を買いたければここに来るがいい。絶対に目移りする。
ここにはさらに不思議な場所がある。一般書店の中で意外にも堂堂とエロ漫画を読める。
そのうえ台湾のようにパッケージされてない。取って見れるのは非常に便利だし、新しい本だ。
鳩
すでに紹介した台場の海鳥と鳩は東京で話す価値がある。
みんな知ってるように台湾では人が通り過ぎるだけで、鳩は必ず飛んで逃げる。
日本の鳩は年紀が入っていて、逃げないばかりか頭や肩に停まる。
もし餌をやるときは鳩に包囲されるので注意しよう。小さな傷を受けるかもしれない。
たとえ臆病なスズメでも、あなたを見ればよってくるのであって飛んで行ってしまうことはありえない。
台湾では根本的に不可能だ。
喫煙
東京に行くまでは、台湾の公共場所の禁煙が長年広く行き渡っているのを想像出来なかった。
東京では意外にもやはり喫煙者がたんまりいた。そのうえ男女あまねく吸っている。
整ってきれいな通りは、あちこちの吸殻がぶち壊していた。
僕達は同じ場所で日本人が煙草を吸うのをいつも我慢できなかった。
禁煙席があっても、煙は漂ってくるのだ。
歩き煙草はさらに多い。これは日本人が検討すべきことだと僕は思う。
台湾に帰る驚きの過程
その日、孟勳と秋葉原で別れた。残りの2時間を各自自由に使った。
僕は別の路線に乗りたかったので、京浜線(東京<->横浜)に乗って横浜に行った。
ホーム反対側の列車に乗ってしまった。
この間違いがなければ、今頃はもう上野に戻って京成線(東京<->成田空港)に乗って台湾に戻る飛行機に乗るころだ。
思いがけずも同じホームに2種類の違う路線の列車がいるとは。新横浜へ行く路線に乗ってしまった。
タクシーの運転手と30分話してみたが、あまりにも高かった。
彼は上野駅では間に合わないのを知ってたので、僕を横浜まで乗せた。僕は再度京浜線に乗って上野に戻るしかない。
そのとき(17:16)、孟勳はすでに成田空港にいた。しかし僕はやっと行き始めたところだった。
さらに滅茶苦茶なことに、成田空港へ行く特急がなかった。
僕は特急に必ず乗って飛行機に間に合わせないといけない(19:15)
まず高砂へ行く急行に乗るしかなかった。焦って仕方ない。
時間を計算すると台湾に帰れる望みはない。3日後にならないと飛行機に乗れない。
心の中ではずっと祈って祈った。座ってもじっとしてられない。ずっと路線図とホームをにらんだ。
高砂で成田空港ゆきの特急を見つけた。本当にうれしかった!
(おそらく羽田空港発成田空港ゆきの特急だったのだろう)
僕は心の中で喚声をあげた:「僕は家に帰れるぞ!僕は家に帰れるぞ!」
ついに18:40チェックインカウンターに着いた。チェックインのとき感謝した。神よ!阿弥陀仏よ!観世音菩薩よ!
3時間の苦しみを経たとはいえ、神がこのような経験をさせてくれたことを僕は感謝した。
自分をとてもLUCKYだと思った。時機判断、迅速決定の能力を持っていたのだ。
もしどこかにミスがあれば、本当に台湾に帰れなかったのだから!
この急いで飛行機に乗り込むまでの間、五日間の旅の中で僕はいちばん日本語を多く長く使った。
だから3千円多く払って帰ってくることができたのだ、やはりこの経験は価値があった!
このとき会った日本人にここで感謝したい。
あなたたちの助けがなかったら、僕は順調に帰って来れなかった!